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最初からもう決まっている

文章を書くとき、わたしはいつでも泣きたいような気持ちで書いている。その“泣きたいような気持ち”は悲しさでも辛さでもなく、そうした定型化された感情の枠にはおさまらないような気持ちのことだ。目の奥に涙の波が渦巻いていて、大きく揺れたり、凪いだりしている。月の引力に導かれる海のように、引いたり満ちたりもしている。薄い光が差す朝もくれば、昼も、夜もくる。目の奥で、自分が感じているのとはまた違う時が流れている。その世界には目を閉じればいくことができるが、それはまた夢の中とも違う。“目を閉じて見る”の意思のもとに見ることのできる世界のことなのだ。

話は変わる。

「やる」と「やらない」の間には大きな溝があると今までずっとそう思い込んできた。二つの間には上からでは絶対に底が見えないような深い谷が存在して、「やる」側の地に立っている人は少ないがその谷を恐れながらも飛んだ人で、「やらない」側の地に立っている人は多く、谷を恐れて飛べなかった人だと。そう思っていた。

ただ最近すこし考えが変わってきて、「やる」と「やらない」は地続きのもので谷なんてものは存在しない。県境というものや国境というものが想像していたよりも地味なように、適当に線がひかれているだけだ。「ここからここはわたしの陣地ね、そっちはあなたの陣地」のような小学生の時に考えたようなルールがずっと大人になっても適用されている。

もし「やる」と「やらない」の間には深い溝があるとするならば、そのどちらかしか選べないことにならないだろうか。「やる」を選べばずっと何かをやり続ける人生だし、「やらない」を選べばずっと何もやらない人生ということだ。でも生きてみるとそうしたどちらかだけの状態をずっと続けることは難しい。だから「やる」と「やらない」は簡単な線引きだけで、行き来もしやすいものなのだとわたしは思う。というかそうでなくてはならない。

あと「やる」と「やらない」って心理的にどうなのかということを考えてみたが、ちょっとしたことに気付いた。ここまでの流れがややこしくて面倒だったので簡潔に記したい。わたしが気付いたのは二つ。

やるかどうかを検討している時は、もうすでに「やる」のゾーンに片足を突っ込んでいる。やらないことにしようか迷っている時は、もうすでに「やらない」を選択している。

たとえば、わたしがnoteを書こうかどうかを悩んでいる時はもう「書く」ことが半分決まっているようなもので、逆に書くのをやめようかなと思っている時はもう「書かない」と決めている、ということ。

これが仕事なら「続けていくかどうか」を迷っていたら「続ける」を選んでいるし、「やめるかどうか」を迷っていたらそれは「やめる」を決めちゃっている。「別れるかどうか」なら「別れる」し、「付き合い続けるかどうか」なら「付き合い続ける」だろう。

だからこのような考えが浮かんだ時にはそれはもう迷っているではなく、決断が終わっていると考えてよい。潔くどちらかの行動に移れば時間をロスすることも少ないだろう。

こうして考えてみると人は案外、自分の中で早々に答えを決めているのだなあと思う。これが「どうしたらいいか」だと何も決まっていない状態になるのだけれど、そういう場合も話を聞いてみたり、もう少し深ぼって考えてみると決まっていることが多い。ひとつ気付けば全部気付けるような気がしているけれど、それだと気付いていることに気付いていない構造になりかねない気がして少し怖い。やはり「やる」「やらない」を行ったり来たりするように、「気付く」「気付かない」も往復しながら生きていくのが最適ということかもしれない。

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