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人生を遊びにする


1. 自己肯定感は高めるもの?



一昨日の記事で海外に住むことで、自己肯定感が上がったり、下がったりすることについて書いてみた。

10代のころは感受性豊かで、まっさらな状態で様々で経験を生きる。

その過程で様々な感情を覚え、自己肯定感が上がったり、下がったりする。

おそらく自分の自己肯定感をバロメーターで図にしたら10代から20代にかけて右肩上がりになっていると思う。

しかし、自己肯定感が高い、もしくは高くなっていくこと自体が良いことなのだろうか?

そもそも自己肯定感を高める目的って何なんだろうか?

似た言葉に「自信」がある。

自己肯定感とは、自己を肯定する。つまり、これで良いんだ。と思うこと。

一方自信は、行動をしたこと、もしくは行動した結果から生まれるもの。

自己肯定感は、一歩間違えると、歩みを止め、停滞する言い訳に繋がりかねない。

よく、ラテン系の国の人たちは、明るくていつも笑顔だよね、というイメージを持たれる。

その通りだと思う。

彼らは日本の人たちと比べて見ると、自己肯定感が高く、ハッピーに見える。

ただし、その引き換えに経済、テクノロジーなどの分野においてはその他の世界に遅れをとっている。

どちらが良い悪いではなく、物事は常にトレードオフの関係にあることを忘れていけない。

では、自信をつけることを目的にすれば良いのだろうか?

ぼくは10代のころからずっと自信がなく、怯えながらサッカーをしていた。

その自信とは、誰かとの比較から来るものであり、自分自身との比較ではなかったため、本物の自信ではなかった。

自信は行動した結果、後について来るものであり、自信をつけることを目的にするべきではない。


2. 人生を遊びにする


海外で7年くらいサッカーをして生きてきた自分が感じる、日本と海外のサッカーの違いは何か。

まず言葉の違いを見てみる。

英語でFootball,soccer はplayされるもの。

そのほか運動と呼ばれる類のjogging(ジョギング)、swimming(スイミング)などはplayではなくgoという動詞が使われる。

go hogging , go swimming など。

またJudo(柔道)やgymnastics(体操)、sportsなどはDo。


彼らはサッカー、またはフットボールをGoでもDoでもなくPlayするもの

という定義で捉えている。

少なくとも、自分が一緒にプレーしてきたチームメイトたちはみなDoでも、Goでもなく、サッカーをPlayしていた。

そしてどこかで人生も同じくPlayするような感覚を持ち合わせているように感じる。

僕の主観では、日本サッカーはDoされるものという意識が強い。

いつから僕(たち)はサッカー(人生)を遊ぶことを忘れてしまったのだろうか。

いつからか、理不尽や、価値観の違いなどにばかり目がいき、遊ぶことを忘れてしまっていないだろうか。

上手くいかない結果から逃れるために、現状を肯定するそれっぽい理由を探してしまっていないだろうか。

初心を大事にするとは、子どもの時に戻ってリセットされることではない。

大人になって感情の折り合いのつけ方を上手くなった状態で、子ども時代と同じく遊ぶこと。

遊ぶ、ためにはサッカーを面白くする工夫が必要だ。

ステージが変わって、レベルが上がれば、出てくるボスのレベルも上がる。

人生の難易度が上がることは遊ぶことの醍醐味であり、生きることそのもの。




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