遊びのなかに人間の本質がある
1. 孤独は深みを与える
若いうちに孤独と向き合えるかどうか。
自分の兄は年収は平均より高く、性格も優しく、また見た目も悪くないので彼女がいなかった時期というのはあまりない。(少なくとも自分が知る限り)
けれどもそのことがかえって彼のひとりの時間を奪っている。
もちろん責めるわけでも、否定するわけでもないが、孤独は自分という人間を掘り下げる貴重な時間である。
人からの干渉がない状態で、自分のこころと身体の状態にまず注目する。
そして自分の喜び、はたまた不快な感情はどこからやってくるのか、丁寧に聞き分けていく。
そうすることで、自己理解が深まり、自分の機嫌をとるのが少し上手になる。
そうして自分の機嫌をとるのが少しだけ上手くなると、自分が大切におもう人たちとの時間を以前より少しだけ楽しく、また気持ちのよい時間にできる。
かの有名なニュートンは、万有引力を論じた本の執筆のために、約2年間の間ひとりきりで引きこもっていたらしい。
近代物理学の基礎となる偉大な理論は、その孤立した場所から生まれた。
僕たちがそこまでする必要があるかといわれれば、そうではないと思うが、ここから得られるヒントはあるだろう。
自分以外の誰かを幸せにする以前に、自分のことを深く理解し、幸せにできるか。
2. 繋がってしまう現代で、生きること
平気で周囲に自分のエゴや、不満をまき散らし、まわりの気分を害する人というのは案外たくさんいる。
また良かれと思って親切心で他人に接することが、当の本人にとってはノイズになってしまうことも多々あるんじゃないかと思う。
そもそも、現代はインターネットの発達で繋がりすぎてしまう時代だ。
ただでさえノイズが多く、そのうえ親切心で他人に干渉してくるのだからたまったもんじゃない。
そんな世の中の構造を逆手にとることで、ノイズではなく、波長のあう人や情報に触れるように工夫できれば、より豊かな人生が手に入るだろう。
3.遊びのなかに人間の本質がある
英語やスペイン語の勉強をしているなかで、さまざまな文化の違いに触れるのだが、彼らはサッカーをPlay、スペイン語ではJugarという動詞で表現する。
対して、陸上競技やエクササイズに関しては、DoやTakeなどの動詞を使う。
僕の個人的なイメージだが、日本ではサッカーをPlayではなく、DoやTakeなどのイメージでとらえることが多いんじゃないかと思う。
どちらかというと、技術の精度を高め、反復作業のなかで、再現性を高め、本番でも同様のパフォーマンスを発揮することが得意な文化が日本。
一方サッカーをplay(遊ぶ)ことが文化なスペインやウルグアイでは、相手との駆け引きや、相手をだますことが当たり前であるように感じる。
当然相手へのリスペクトは決して忘れるべきではないが、聖人君主なだけでは、狡猾な彼らにとって食われてしまう。
人生においては、だますとは言わないにしろ、だまされないだけの知識と備えができているかは大事なんじゃないか。
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