得意なことを続ける落とし穴
1. 好きなことと得意なこと
学生時代を通じて、社会に出てからも自分の得意なことを活かして良い成績を残してきた人が陥りやすいこととして、人からも信頼され、会社での評価も高いけれど、自分自身の好きなことが何か分からなくなってしまうことがあると思います。
自分自身、社会人としての経験がないので現場を見ているわけではないですが、会社に長いこと属していると、得意なことで戦うことに慣れきってしまい(そうしなければ生き残っていけない)、自分の好きなことを考える余裕も体力も時間もなくなってしまう危険があるのではないでしょうか。
もちろん、仕事=得意なことを活かすことで誰かの問題解決をすることと定義できるので、得意なことをすること自体は方向性としては間違っていないと思うのですが、往々にしてこの資本主義社会では、やりがい搾取やブラック企業という言葉が一般的になるほど、長時間労働がさも当たり前であるかのように普通のこととして扱われます。
得意なことと、好きなことが同じ、もしくは重なっている部分が多ければおそらく、その仕事は天職と言えるのかもしれません。
ですが、冷静に考えてみて、学生時代から得意なことを優先するような教育を受けてきて、かつ社会に出てからも、自分の得意なことを武器として戦ってきた人間が果たして自分の好きなことが何なのか分かるのでしょうか?
普段から、自分の好きなことと得意なことが何なのかに対してアンテナを張っているのならば話は別でしょうが、基本的にこの資本主義社会、そして消費社会において、自分が普段口にするもの・コトや、目にするものの大半は、自ら好んで選んでいるのではなく、選ばされているのだと感じます。
普段から選ばされることに慣れている人間が考える「好き」は本当の好きではなく、企業のマーケティング戦略にまんまとハマってしまっているか、本当に「好き」かどうか後から問われると、別にそれがなくとも構わないと感じるくらいしょうもないものである可能性があります。
明日死ぬとしたら、これだけは絶対に譲れない。
そう断言できるものがあれば、それはあなたにとって本当に大事で価値のあるものでしょう。
逆説的にいうと、これは別に明日死ぬならば別になくても構わないと感じる程度のものならば、それは本当に好きなことではないのです。
別にそのことを恥じる必要はないと思います。人は本来良い加減で、中途半端な生き物です。
日本に帰国した際、気をつけていることがあるのですが、選択肢や情報が多く、またサービス大国でもあるので、必要以上に消費しないこと、そして何より大して好きでもないものを好きと勘違いしてしまわないように、しっかりと自分の本当に好きなことや人を大事にするよう心がけています。
その際、好きに対して変なフィルターを通さないことが大事だと感じます。
流行りや、最先端、これらの言葉に敏感な人の意見は特に注意深く用心します。
流行りというくらいなのだから、流れをつくる側の人間と流れに流される側がいると思いますが、自分がどちらなのかよく考えることが大事だと感じます。
またよく、家族だから、親だから、先輩だから、後輩だから、といって上下関係フィルターを通してしまうことがあると思います。
家族も人間です。
親に対して自分が小さいころは、感情的なフィルターのみを通して見ていましたが、いまは感情や親子というフィルターをあまり通さず、ひとりの人間として見ることもできるようになってきたと感じます。
もちろんそのうえで、改めて親や家族に対しては感謝の気持ちが湧いてくるので、感情をおろそかにしているとか、感情を抑えているとかいうことではないです。
むしろ、家族に対しては共に過ごす時間をより大事にしようと思えるようになりました。
まとめに入ります。
得意なことだけで生きている人間は、自分の好きが何なのかを改めて考える時間がそのひとの人生を豊かにするきっかけになり得ること。
また大抵の好きは、本当の好きではなく、何かしらのフィルターを通したり、選ばされているものかもしれず、それ自体大して好きでもない可能性があること。
以上を踏まえたうえで、本当の好きは何なのか。
今の自分なりの考えを述べて、終わろうと思います。
本当の好きは、好きという言葉ではとても表せず、もっと大きく、そしてささやかでぬくもりを持った偉大なものであるように感じます。
それがあなたにとって何なのかを探すのが、この人生の大きな目的のひとつではないでしょうか。
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