見出し画像

あなたの価値観はどこからやってきているのか

1. 人生の責任


今朝考えていたのですが、自分の幸せ、すなわち自分の人生に対してどう責任を取るかという問いです。

自分は20代の頭に、南米ウルグアイという国でサッカーをしていて、コロナ渦もウルグアイで過ごしました。

現在ウルグアイのお隣アルゼンチンでは、大統領が変わったばかりで、彼の力づくの政策の影響で国民は日々の生活すら危ぶまれる状況です。

自分のチームメイトにはアルゼンチン人選手がいたり、また現地に住むアルゼンチンの友だちもいるので個人的に生の情報に触れる機会が多いです。

彼らが言うところによれば、気晴らしに散歩に出かけようものなら、自らの身を危険にさらすことになるので、特別な用事がない限り外出を控えているそうです。

また別の友達によると、学生時代のクラスメイトの自宅に強盗が入り、そのクラスメイトは殺害されてしまったそうです。

ここまで来ると、生命に関わる話になりますが、これらの事実が自分という人間の人生にどのような影響を与えるのか、なぜこの事実に自分は巡り合ったのか、深く考えさせられるものです。


2. 自らの価値観の由来は何か


今回はアルゼンチンでの出来事を例に出しましたが、世界中に目を向ければ同様の悲惨な出来事はいくらでも存在します。

また日本国内においても、大小さまざまな問題・課題が存在してしています。

この世界には、問題や課題は元から存在していて、自分自身がそれら問題にどう対処するか、向き合うか、という態度・姿勢が問われており、人生とはこの問題だらけの世界で、何を解決し、誰を救いたいか、というテーマではないかと最近は感じます。

目の前の問題・課題に対して言い訳を探したり、恐怖に支配され、後回しにするならば、一時的には気分は良くなるかもしれませんが、それらは後になってより大きな問題となってあなたの目の前に立ちはだかるでしょう。

なぜなら、この世に生きる限り、一人で存在することはできないのであり、生きるとは必ず他者との関係のみにおいて成り立つものだからです。

自分ひとりだけが得をする、幸せになる、などということはあり得ないのです。


ではこの人生において価値があることは何なのか。

自分の人生における大事な価値観は何なのか。

それは、いまこの瞬間を生きることである、と表現できるでしょう。

今日がなければ、明日は存在しない。

生死をかけて戦うからこそ、今この瞬間を生きている実感が得られるのです。

サッカーとは、人生のメタファーであり、今この瞬間を生きている実感のためにサッカーをするのです。

今この瞬間を生きるとは、自分の人生に対して責任を負う姿勢ともいえるでしょう。

過去の価値観に縛られるのではなく、自らが今この瞬間どうあるのか、またはどうありたいのか、という選択をすること。

常に「生きるか死ぬか」の選択を迫られる環境にいる人間が行うサッカーと、そうでない人間が行うサッカーとでは、どちらがより人間らしく、芸術的であるかと言われたら自分は間違いなく前者だと答えます。

自分にとっての幸せとは、状態ではなく、瞬間だと感じます。

人に自由意志があるのかどうかはわかりません。

環境の力の大きさも年齢を重ねるにつれ、より実感します。

しかし、この世界で瞬間瞬間において決断を下し続ける人間が存在することを自分は目の当たりにしてきました。

過去に目を向ければ、歴史がその事実をより一層強固なものとしてくれます。

自らの利益だけでなく、他者を巻き込んで決断を下し続けることができる人間です。


たとえ、世界中がどんなに荒れ果て、そして問題や課題に溢れた場所だとしても、自分の幸せは自ら守り続けることが大人としての最低限の責任だと思うのです。

言葉を変えるならば、自分の幸せが誰かに依存するものであってはいけないということです。

アウシュヴィッツ収容所での出来事を描いた「夜と霧」では

人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなく、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。

と語られていますが、たとえ絶望的な状況、明日が存在しないと分かっているような状況においても、いまこの瞬間に自分は同じ選択をする、という覚悟と責任を持てるかが大事だと思うのです。

人は多くの場合、恐怖や、誰かの価値観、トラウマ、そういったことに邪魔されて、自らの選択で決断を下すことができないものです。

この世に成功する人間が限られているのも、そういった理由からだと思います。

どこかで、人生を誰かに託してしまっている。

どこかで生に固執してしまっている。

自分が心の底から望むことが分かっていない。

そういった姿勢を持つ人間は、目の前に壁が現れると出来ない理由を探すものです。

自らが求めるもの、大事にするものを分かっていなければ、自分自身の幸せを確保することも難しいでしょう。

またこの世には他人の幸せを踏みにじる人間も存在します。

だからこそ、自らの幸せを他人の負の影響から守る術を身に着ける必要があるのです。

それは、時に心地のよいものではないかもしれません。

変化を必要とし、痛みを伴うものかもしれません。

勇気を必要とするかもしれません。

もしかすると誰も賛同してくれる人がいないかもしれません。

しかし、自らを信じ、一歩を踏み出す意志を持った人間は必ず答えを見つけ出します。

なぜなら、人間一人ひとりが持つ可能性はとてつもないものだからです。

今日ChatGPTに代表されるような生成AIについての話題を耳にしない日はなくなってきましたが、仮にコンピューターに人間の脳と同じだけの情報を処理させようとすると原子力発電所丸ごと一つ分のエネルギーが必要になるそうです。

当然人間はそれほどのエネルギーを消費して情報処理していません。

つまり、人間の脳はとても効率の良い情報処理能力を備えているわけです。

「人ひとりは、ひとつの宇宙である」と言うとロマンチックに聞こえるかもしれませんが、実際のところ今日の科学的な観点からしてもそれほど大げさな表現ではないないでしょう。
(スペイン語では、cada uno es un mundoとなり、人それぞれ違った個性を持っているという意味になります。)


話を戻します。

自分が南米ウルグアイにいって、物質的な豊さという点では日本のそれにおよそ及ばない環境で3年半もの時間を過ごし、今なおその時の感覚が色濃く残っているのは、そこに恐怖や誰かの価値観ではなく、ひとりの固有の人間としての意志が存在し、幸せをつかみ取る責任と決断が存在するからだと思うのです。

そういった価値観が、今もなお自分の生き方の道しるべとなっているのです。

自分は幸せのベースとなる価値観をウルグアイという地球の反対側で見つけましたが、必ずしもどこか辺境の地に行かなくても良いと思います。

先に述べたように、人間の脳はとてつもない力を秘めていて、本人さえ望めば今すぐ変わることは可能なのです。



3. 人生の流れ


以前の記事で書いたように、今シーズンは自らの価値観とは対極にあるような集団のなかで時間を過ごすこととなり、非常に精神的に苦しいシーズンでした。

たとえ個人やチームとしての結果が良かったとしても、心の底から喜びを得られる瞬間というのはとても少なかったです。

ですが、自分が大事にする価値観を浮き彫りにし、より人生の方向性をはっきりさせてくれた期間と捉えるならば、ひとつの成功だったと言えるでしょう。

サッカーに流れがあるように、人生にも流れがあると感じます。

今シーズンは急流に流されまいと四苦八苦したシーズンであり、プレーオフを控えた現在もチームの雰囲気はお世辞にも良いとは言えず、日々の喜びを感じるのが難しいと感じる瞬間も多々あります。

エゴや怠慢が規律やリスペクトを上回った集団・組織とは脆いものです。

この状況はひとつの挑戦であり、自分自身の幸せ。自分で守ることができるかどうかを試されているのだと感じます。


最後に、かの有名なアインシュタインの言葉をシェアして終わりにします。

この世には2つの生き方がある。ひとつは何事も奇跡でないかのように生きること。もう一つは全てが奇跡であるかのように生きること。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?