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同年代の若手スターと、平凡な20歳大学生の自分の間にあるものは

同年代が、普通に世に出る年齢になってしまった。

高校球児はもう年下だし、今をときめく若手タレント、モデル、お笑い芸人、スポーツ選手、彼らとも大体同い年。

テレビの前で見る彼らの姿は、やけに大人びているように見える。今だに、甲子園を見ていても、自分が彼らよりも2つも3つも年下なんて思えない。

彼らを見ていると、
自分はまだなにもできない「子供」で、
彼らはもう自分一人で生きていける「大人」
なんじゃないかと思わず、思わされる。

これは、同じ年数を過ごしてきても、彼らと自分では人生の密度が、重さが違ったのかと、言い得ようのない敗北感を僕に与える。

でもそれが全てかというと、そんなことはないかもしれないと、ふと思った話。

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幼い頃からプロを目指し、練習やら稽古やらに明け暮れる人がいる。
彼らは確かに、僕の生きてきた速度の2倍3倍のスピード感を持って幼少期を過ごしてきたのだと思う。

そして毎日毎日練習に打ち込む彼らは、幼い頃から常に厳しい勝負の世界に身を置き、対戦相手と、何より自分自身と、対峙し続けてきた強い人間だと思う。


それでは、彼らの20年に比べ、自分の20年は無意味だったのか。


そんなことはないと思いたい。きっと人それぞれに勉強をし、部活をし、時に友達と遊び、時に深く悩み、そうして、決して人より深くはなくとも、それは確かな人生を、20年を生きてきていることに違いはないのだ。


そこで僕は、20歳で世に出てる人を見るとき、それは結果というより過程なんだと解釈した方が正確なんじゃないかと思うことにした。


人生をマラソンに例えるなら、きっと人それぞれペース配分は違うのだ。小さい頃からスピードをあげていくタイプのランナーもいれば、スロースタートでも、最後の伸びがすごいタイプのランナーもいる。


つまり、人生で活動的な期間を60歳までとするならば、20歳の成果なんて、まだ全体の3分の1という中間地点での成果に過ぎないのだ。


もちろん何歳からでも追い込みはかけられるし、実際のマラソンでは最後までどうなるかわからないこともあるだろうけれど、僕の肌感として、きっと3分の2地点、つまり40歳に差し掛かる頃が勝負の分かれ目かなと言う気がしている。


だから、彼らが例えばテレビに出て有名人になったとしても、それはその人におけるゴールではなく、テレビに出ると言う目立ちやすい経路を通って、マラソンを走る成長中の身であり、要はまだ発展途上なのだ。

他の例をあげるならば、いい大学に入学した、あの人は〇〇大学の生徒だ、と言うのは、はたから見れば成果かもしれないけれど、その人にとってはまだ発展途上であり、ある到達点に向かう過程でしかないのと同じであるように。


もちろん若くして世間に知られるような人もすごいが、そうではない大多数の僕らは、こっから15年、20年をいかに生きるかというのが大事だと思う。

勘違いしてはいけないのは、テレビの中の同世代とはまだ勝っても負けてもいない、同じ20歳と言うレースの途中なのだと言うこと。

同年代の若手スターと、平凡な20歳大学生の自分の間にあるものは、密度は違えど、結局同じ20年でしかない。

一番大事なのは、隣の青い芝生をみて自信をなくさず、自分も相手もまだまだ成長過程なのだと理解し、己の歩みを止めないことだと思う。

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