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琴の哀悼歌~宇治の姫へ~

※以下の物語は、某新聞社に応募したが、落選したので、せめて、ここで、投稿する。『源氏物語』の宇治十帖の現代語訳や解釈は多岐にわたるが、私は大君に着目して書いた。

 月が照らす平安京の夜に、宇治の琴は、長き友の琵琶と共に、昔の主を語り始める。


 大君は、父の八の宮と妹の中の君の三人で暮らしていました。家族が住む、宇治の屋敷は川のせせらぎや風の音が響く所です。

 琴の私に初めて触れた大君の幼き手は、優しく温かいものでした。私の奏で方を学ぶ大君の眼差しは真っ直ぐ、しっかりと耳を傾けていたものです。
 中の君も、同じ頃に琵琶の弾き方を学び、夜には姉妹で、ひっそりと合奏の練習をしました。私も、初々しい姉妹との時間を心地よく感じていたのが、目に浮かびます。

 八の宮は、高貴な雰囲気をもち、娘思いの優しい方。仏の信仰が厚く、毎日、八の宮による読経の声が屋敷に響きました。八の宮が娘たちに仏の教えを話す時、中の君はこくりこくりと眠ることもありましたが、大君は、瞳を輝かせて父の話を聞きました。

「お父さまが毎日、お経をお唱えするのは、お母さまのためですか。」
 ある夜、大君は、八の宮に問いました。
「そうだね。」
 八の宮は、娘の問いに静かに答えました。
「もちろん、私がお経を唱えるのは、お前たちの亡き母君のためもある。
でもね、私が都で暮らしていた時、あらゆる欲をもつ者が私の傍に来たが、私が帝になれぬと、ほとんどの者が離れていった。唯一、ずっと傍にいてくれた母君も、私とお前たちを残し、早く逝ってしまった。どのような心をもった者でも、いずれはあの世へ逝く。私は、そんな人生の虚しさを知るためにも、読経をするのだよ。」
 首をかしげる大君に、八の宮は、
 「じきに分かる時がくる。」
と微笑み、大君の頭をなでました。

 穏やかな音色の琴は、明るく華やか音色に変える。


 大君が、多くの曲を弾けるようになった頃、幼き手も、温もりは変わらず優美な手になりました。成人の儀を迎え、姉妹は、私と琵琶で、父の前で合奏を披露しました。

 八の宮の目に浮かぶのは、立派に成長した娘たちの姿に、この上ない幸せの涙。

 大君は、成人した後、父と読経を共にしました。妹と庭に咲く花を愛で、歌詠みを楽しむ大君ですが、父と行う読経の声は、また趣深いものです。「姉さま、庭の女郎花がきれいに咲いているの。部屋に飾りましょうよ。」 
 澄んだ中の君の声。
「いいわね。樒も一緒に摘んで、仏さまにお供えしましょう。」
「姉さまは、お父さまのように、仏さまにご熱心なこと。琵琶や歌詠みは私もできるけど、読経となると、姉さまにはかなわないわ。」
中の君の笑顔には、童のあどけなさが残ります。
「そうかしら。ただ、読経を行う時は、琴を弾く時と同じくらい心が落ち着くの。」
大君は中の君に微笑み、姉妹で庭へ向かいました。

 姉妹が、私と琵琶の合奏に興じたある秋の夜。一曲終えて、中の君は、撥を自らの額にあて、夜空を見上げました。
 少し横になる大君の優雅に満ちた顔。中の君の満月を眺める可憐な顔。満月の光が、姉妹の美しさを際立たせます。

「ほら、物語にある扇でなくても、撥で月を呼ぶことができた。」
 得意げに振り返る中の君の笑顔に、大君は穏やかな笑顔で返します
「本当。ちょうどよく、月も出てきたものね。」
私に触れ、大君は一曲弾き、中の君も次いで合奏しました。
 夜風と川の音のもと、姉妹の美しい音色が一面に響き合います。大君は、妹と笑みを交わせながら、こんな穏やかな日がいつまでも続いてほしい、という心が私に伝わります。

一人の仕え人が慌ただしく姉妹のもとに来ました。

「ただ今、薫君がいらっしゃいました。」
 仕え人の言葉に、姉妹はすぐさま、奥部屋に入りました。少しして、大君と中の君と話す声が聞こえます。

「さっき、薫君とお話をしたの。」
「どのようなお方だったの、姉さま。」

「優しそうなお方に感じたわ。薫君は、私ともっとお話したいようだったけ ど、私も返事をするのに困ったの。仕え人が代わりになってくれたけど。」大君は、ため息をつき、
「お父さまと親交を深くされているお方だけど。何だが、都の人とお話するのは、慣れないわ。」
 しかし、大君のため息は、明くる日も続くことになりました。薫君は、八の宮を訪ねる度に、大君に会い、歌を贈るようになったのです。大君も、障りのないように歌を返しました。

 山桜が咲き誇るある日、姉妹のもとに、耳にしたことがない音が届きました。幾音もの響き渡る笛や太鼓の音、楽しそうに口ずさむ歌い声や笑い声。あまたの音が、宇治の屋敷にいる全ての者に、耳を傾けずにはいられない心地にします。

「いい音色。都の人は、いろんな楽器や歌をご存じなのね。」
中の君は、珍しい音に瞳を輝かせました。

「薫君と所縁のある方々が、この近くで宴を行うと聞いていたけど。都の音楽は、本当に優雅ね。」
大君も、しみじみと都の音に聞き入っていました。

 琴は、また一息つくと、静かながらも沈んだ音色に変える。

明くる日、中の君は、宴にいたある殿方と、文を交わすようになりました。

「中の君のことが、心配。」
私は、大君に触れた指から、その気持ちが伝わりました。

「匂宮との文を、楽しみにしているけど。大丈夫なのかしら。このところ、お父さまもお加減が良くないみたい。」

大君はうつむき、小さなため息を漏らしました。半月の光で、大君の長い黒髪が輝き、その顔は奥ゆかしいと私は感じました。


琴は、語り続ける。

大君が心配していた通り、八の宮は、度々お体を崩すようになりました。ある夏の日、八の宮は姉妹を仏間へ呼び、しばらくして戻った姉妹の表情は暗く沈み、深く口を閉ざしたままです。

「本当に、お父さまはお命が長くないのかしら。」
長い沈黙の中、中の君の言葉に、大君は

「恐らくそうでしょう。私たちの身のために、姉妹離れず宇治で静かに暮らすようにというお父さまの言葉は、私たちへの最後の教えとも思うわ。」

「お父さまが亡くなるのも辛いだけど、姉さまも、この地も離れるなんて、私には考えられない。」

「私も、離ればなれなんてことは。」

 やがて、姉妹の不安が、本当になる日がきました。八の宮は、寺で修行するために屋敷を出て行き、姉妹は、心が押しつぶされそうになりながらも、平生を装い過ごしました。

 しかし、寺の文が届くと、屋敷には、姉妹の悲しみの声で溢れました。その夜、私の傍で臥していた大君は、静かに起き上がり、涙で濡れた顔を拭い、空を眺めぽつりと、
「お父さまの教えを守らねば。」
夜空に点々と光る星の光が、大君の悲しくも美しい姿に影を落としました。

 次の日、大君は、黒き衣を纏い、お香を供えて読経を行いました。天高く昇るお香の煙のように、尊い大君の声。その後、薫君が訪ね、葬儀の支度を手伝いました。

「今日は、ありがとうございました。父も、薫君に感謝していることと思います。」

 大君は、御簾を隔て、薫君にお礼を伝えました。ためらいもあるのか、大君は、御簾を隔てて薫君と話すことが常でした。

「あなた様のお力になれて良かった。私は、亡き師への恩として、当然のことをしたまでです。」
薫君の声は、優しく穏やかでした。

「今はお二人だけで、さぞ心細いでしょう。私は、これからも宇治へ訪ねます。お困りごとがあれば何なりとおっしゃってください。」

大君は、薫君の言葉に、不安の影が表情にありました。

「ありがたいことですが、なぜ、そこまで私たちの心配をしてくださるのですか。」

「実は八の宮が生前、自ら亡き後、あなた様方のお世話を頼まれていたのです。私は、畏れ多いこととは思いながらも、お引き受け致しました。それに・・・」

薫君は、少し間をあけて言いました。

「秋の夜、琴を弾くあなた様を垣間見た時から、私は初めて、恋い慕う気持ちが沸きました。」

「そうおっしゃっても、私は、この地で妹と暮らすつもりです。」

「私の気持ちは、ゆっくりでも良いのでお考えください。匂宮も、中の君を深く思う気持ちは変わらぬようです。」

薫君はそう伝えると、屋敷を後にしました。

「とんでもないことだわ。でも、私一人ではどうすることもできないし、中の君のことも考えたら、これからどうしていけば…。」

あらゆる不安が大君を覆い、その表情は曇っていきました。


 八の宮の亡き後、屋敷で聞こえるのは外の秋風や虫の音。悲しみ果てた姉妹は、庭の草花の話をし、私や琵琶を弾き過ごしました。

時折、薫君が屋敷を訪ねて大君とお話することもありました。

「私たちを助けてくださるのは、ありがたいけど。」

雪がちらほらと降る夜、大君は、私に触れたまま、心に思われました。

「薫君の優しさは、私にはもったいない。」
その心は、迷いで揺れました。

 年が明け、八の宮の一周忌。屋敷では、薫君の細かい気配りで、法要が行われました。

 法要の後、毎晩仏間で読経を行い、自らの部屋に戻る大君でしたが、その晩はいくら待っても戻りません。代わりに、中の君が、私の傍に座り、姉を待ちます。中の君は、まだ童のように、寂しさに耐えられなかったのでしょう。姉は戻らず、遂に、中の君は私の傍でまどろんでしまいました。

 日が明け始めた頃。部屋に入った大君の様子は、呆然としており、私に触れた指から、ようやくその心の内を、感じ取りました。

「薫君の私に対するお気持ちは、並々ではない。私は、別れ際に贈った歌のように、友として話すことはできるけど、薫君のお気持ちが変わらないのなら。」

大君は、中の君を見て思いつめました。

「ならばせめて、薫君と中の君を、結ばせよう。薫君は、中の君と匂宮の結婚を考えているようだけど、きっと薫君の方が大事にしてくれるに違いない。私一人では、この屋敷も中の君も、最期まで守ることは難しい。だから、中の君と薫君が結婚するまでは、中の君のお世話をして、その後は、私一人で、この地で暮らそう。」

決心した大君は、妹の傍で臥しました。

 一周忌。薄鈍色の衣に着替えた大君は、愁いを帯びながらも美しさが際立ちました。薫君も、屋敷を訪ねては、大君へ気持ちを伝えました。大君は、決心を変えず、薫君の気持ちが中の君に向くように、考え込むようになりました。

 琴の音色は、だんだんと不安定な調子が加わる。

 ある夜、大君は、自分の代わりに、薫君と中の君を逢わせました。結局、思いは叶わず、薫君の気持ちも変わりません。また、中の君は、なぜ自分を薫君と逢わせたのか、姉の心中を疑うようになりました。姉妹で語り合い、私や琵琶を弾いてお互いに心を慰め合うことも、この頃からなくなったのです。

 不安定な調子であった琴の音色は、再び穏やかに戻ったが、どこかもの悲しさが含まれていた。

 どうしても、人の世とは思いもよらぬことばかりです。薫君によって、中の君は匂宮と結ばれました。大君は、薫君に裏切られた気持ちになりましたが、妹のために心を静め、結婚の儀に急ぎました。こうして、薫君は大君の友人として、匂宮は中の君の夫として屋敷を訪ね、少しずつ穏やかな日々に戻っていきました。

 けれども、ある頃から、二人の殿方の訪問が減っていたのです。仕え人の間では、匂宮は、都で他の姫との婚姻があるという噂も流れました。大君の表情もひどくやつれ、自分がしたことを悔いました。

「こんなことになるのなら、やはり中の君と薫君を一緒にさせるべきだった。お父さまの教えを守らなかった故に、罰が当たったのだわ。仕え人の中には、私と薫君の結婚を望む者もいるようだけど、だんだん老いていく私が結婚しても、見苦しいだけだろうし、そうなるぐらいならば、一人で死んでいく方がいい。」

 夏の夜風が、大君の髪を揺らしました。思い悩む大君の姿は、悲しみを誘う美しさが漂います。大君は、静かに合掌しました。

「どうか、中の君だけでもお救いください。」


琴は、だんだんと暗く沈んだ音色になる。

 これまで悩み続けたせいか、大君は、床に臥せるようになりました。姉の身を心配した中の君は、看病に励みます。薫君も大君の具合が悪いことを知り、快方に向かうことを願う文を贈りました。私は、ただ傍で、大君を見守ることしかできません。薫君の文を読んだ大君の顔は、添えられた歌に少し穏やかな表情になりました。宇治の山が紅に染まり始めた夜、容体も落ち着いたのか、大君は久しぶりに、私に触れて曲を弾きました。

「薫君の文によると、都の方々が、宇治で紅葉狩りの宴を行う。匂宮も来るとのことだから、きっと中の君に逢ってくれるに違いない。薫君が、私たちのために匂宮が宇治へ通えるようにしてくれたのだ。」

曲を弾き終えて、

「薫君の言葉に偽りはないし、匂宮の噂話が本当でないことを信じよう。中の君もきっと喜ぶわ。私も、ようやく安心できる。」
私に触れる大君の指が震えました。
「薫君のお気持ち、私にはもったいない。友としてやり取りをしてきたけど、あの方の私に対するお気持ちは、今でも変わらないみたい。」
 その瞳から、一筋の涙が流れました。大君の頬を伝い、私にこぼれ落ちた涙から、大君が薫君への耐えがたい自らの恋情に苦しんでいることが、私に分かりました。

『大君は、十分に家族のために尽くされました。どうか、これ以上悩み苦しまないで。』

涙する大君に、琴の私は精一杯叫びました。

大君は涙を拭い、

「でも、お父さまの教えは守らないと。皆が平穏に暮らせるのなら、私はそれだけで十分。」

心静かに思った大君は、寂しそうに微笑みました。

 明くる日、宇治の山では、都からの音色や人びとの声で賑わいました。大君と中の君は声のする方へ一心に耳を傾け、訪ね人を待ちます。
 しかし、日が暮れても、屋敷は静かなまま。
 その夜、薫君の仕え人が来て、姉妹の心中は、一瞬に失望へ変わりました。薫君の仕え人の伝言で、匂宮は中の君に逢おうとしたが、周囲の目もあり、逢いに行けなかったこと。さらに、宴では、匂宮と都の姫との結婚の話がされていたことが明らかになったのです。
 中の君は泣き崩れ、大君は妹を慰める他ありません。泣き疲れて眠る中の君を見守り、自らの部屋に戻った大君は、ふっと力尽きました。

「こんな辛い思いをするのは、私たちの生前の悪業なのかしら。そうならば、今すぐにでも、両親がいるあの世に逝きたい。もうこれ以上生きても、苦しいだけ。」

白く細長い指で、私に触れた大君は、痛々しいほど辛いものでした。


 次の日より、大君は、床にずっと臥せ、中の君の看病も甲斐なく、容体はさらに重くなりました。私は、部屋の片隅に追いやられ、大君と会うことができません。冷たい風が宇治に吹きつける頃、ようやく薫君が屋敷を訪ねました。ほどなくして、屋敷に多くの僧侶が来て、病の快方を願う読経の声で溢れました。

 私が、大君の傍に置かれた時、大君は病が重くのしかかっている様子でした。

「中の君。僧侶の方に、最期の戒律のお願いを。」

大君は、かすかな声で中の君に、願いを託しました。

「そんなこと言わず、姉さま元気になって。」
 弱りゆく姉の傍で、中の君は、ただ泣くばかり。薫君が、慌ただしく部屋に入り、大君の傍に座りました。

「今、新たに来て頂いた高僧の方に、祈祷をお願いしたところです。」

薫君の声は、不安からか震えていました。

「ありがとうございます。あなた様のお心遣いで、私は十分です。」

「そんなことおっしゃらず、愛するあなたが苦しむ姿を見るのは、私には耐えられないことだ。」

 何の隔てもなく大君と話す薫君の瞳は、涙で滲んでいました。
 嘆く二人の姿を見つめた大君の瞳は、弱々しくも、死を決意したように私は感じました。

 吹雪が激しく屋敷の壁を叩きつける音と、屋敷の中では、僧侶たちの祈祷の声が響きます。その夜も、薫君は、大君の傍を離れず看病をしました。
 中の君は、少し離れた所で、琴の私と共に、姉の回復を願うしかありません。また、姉と一緒に合奏したい。

 妹の願いは、あの世に届かず。大君は、静かに息を引き取りました。私が最期に見た大君の顔は、苦しみではありません。誠に安らかなもので生前と変わらぬほど、優雅な美しさに満ちていたのです。その夜、吹雪に覆われた宇治の屋敷には、残された者の悲しみの声が絶えませんでした。


 大君亡き後、中の君のもとへ匂宮が迎えに来ました。私は、姉の形見として、中の君と共に都に来たのです。匂宮は中の君に辛い思いをさせたことを悔い、大事にしました。

 中の君は、都に来てから毎年、秋の満月が美しい夜、仕え人に私を弾かせて、自らは琵琶で合奏をします。その曲は、宇治で姉妹が物語になぞらえて笑い、合奏したものです。

 優雅で気品に溢れていた大君。父の教えを守り、妹を思いやる心優しき大君。愛する人と自らの心に悩み苦しんだ悲しき大君。世間では、哀れな人生を送った姫だと言うでしょう。しかし、大君ほどすばらしい姫はいないと私は存じますし、今でも、大君の温もりが私の体に残っているのです。

 琴は、静かな響きの余韻で語り終えた。秋の満月は、淡々と琴の弦一本一本を明るく照らし、夜は更けていった。


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