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[ゲーム批評] プレイする矛盾



🎮 はじめに ~ゲームへの愛憎~ 🎮


 ゲームが好きだ。しかしこの「好き」には複雑な気持ちが混じっている。ゲームは他の遊び(読書、スポーツ等)に比べて劣位に置かれるような遊び、という認識を持ってきた。ゲームは、それを通じて成長できる遊びではなく、「ついついやってしまう」「抜けられなくなってしまう」ような、それをする人がひどく受動的な立場に追いやるような遊びと世間ではいまだ考えられているように思えるし(昔ならなおさら)、そうした「ゲーム害悪論」が私の超自我となって、ゲームを遊んでいる自分を責める、という側面があることは否定できない。
 岡田尊司の『インターネット・ゲーム依存症 ネトゲからスマホまで』では、麻薬中毒と類して、ゲームが語られる。読んでいると心が痛くなるがその類似性の要点を引用してみよう。
 
①とらわれ(没頭)――そのことしか頭にない。
②離脱症状――程度の差はあれ存在する。
③耐性――だんだんと時間が増えていく。
④コントロール困難――やめようと思ってもやめられない
⑤他の活動への関心低下
⑥「結果のフィードバック」の消失――危険な兆候にも無反応
⑦使用についての欺瞞行為
⑧逃避的使用
⑨現実の課題や家族よりも優先
⑩再発と後遺症
 
 さすがに言い過ぎではないか、と思わなくもないが、ポイントは麻薬中毒と比較することで岡田尊司はゲームの「受動性」を強調しているというところだ。はまったら抜けられない。能動的な意思を滅却する強い受動性を強いるゲーム…。
 岡田尊司の論は「ゲーム害悪論」の最たるものだが、ゲームの可能性を見ようとする陣営もむろん、ゲームの害悪性に自覚的だ。例えば、藤田直哉は『ゲームが教える世界の論点』でゲームの「過集中」について言及している。
「「過集中」とは、なにかに夢中になり寝食を忘れて集中してしまう現象を言う。いわゆる、「ハマる」というやつだ。次から次へと脳に刺激を与え、脳内報酬系が反応し、一種のお祭りのような状態になってしまい、次から次に、もっと先へ先へと進みたいという欲求が生まれてしまうのだ。」
 
 肯定するにしろ否定するにしろゲームの「受動性」は共通の理解となっている。ゲームの「選択」に着目することでゲームの能動性を称揚する語り方もありえるだろう。しかし本論ではこのゲームの「受動性」を、むしろゲームの本質的な条件であると同時に可能性として考えたい。ではまずはゲームの「受動性」とはいかなる内実を有しているのかを確認していこう。

🎮 おつかいとしてのゲーム 🎮



 特にオープンワールドゲームを揶揄するネットスラングに「おつかいゲー」という言葉がある。そもそもおつかいとは、依頼者の用事を満たすために、目的の場所に行き、用事を遂行し、依頼者に報告することだ。オープンワールドゲームを筆頭に、ゲームはこうした「おつかい」に満たされている。
 例えば、筆者が今やっている『FF7 REVIRTH』にはこんな評判のよくない「おつかい」がある。ゴゴンガ村のおばあちゃんの飼っている鶏が脱走したので、町や森を探して連れ帰らなくてはいけない。鶏はバケツの音に反応し近づいてくるので、プレイヤーはバケツを転がし地道に鶏を誘導し、おばあちゃんのもとへ鶏を送り届ける…。
 この例は、その名の通りの「おつかい」だが、ゲームシステム自体にも「おつかい」は仕組まれている。『FF7 REVIRTH』には自由に動きまわり探索できる6つのエリアがあるのだが、クリアすると報酬がもらえるクエストがエリアごとに数十個ある。これはいわば、ゲーム自体がプレイヤーに依頼する「おつかい」と敷衍して考えることもできるだろう。
 つまり「おつかい」とは単なるゲームの一要素ではなく、ゲームを成り立たせる本質的な条件なのだ。映画や音楽や演劇のようなリニアなジャンルと異なり、ゲームが表現として成立するには、プレイヤーの能動性の助けを借りなくてはいけない。ゲームにおける能動性とは選択、ボタンの押下、コマンドの入力である。目の前に出現する局面において、プレイヤーにどの選択肢を提示するか、逆に提示しないか。その選択肢の提示がプレイ体験に何をもたらすのか。選択の結果もたらすプレイヤーへの情動、これを踏まえながら選択肢の連鎖を緻密に設計することで、ゲームはプレイヤーを目的地(エンディング)まで運ぶことができる(※1)。
 選択肢の提示を、指示と言い変えてみよう。ゲームは選択の可能性を指示しているのだ。だからゲームとは指示の構築物である。しかしもちろん、プレイヤーはすべてをゲームの指示の通りに操作することを好まない。もしもそれが幻想であったとしても、能動的に選択しているという意識を持つことで、プレイヤーはゲームを楽しめる。そうしたプレイヤーの需要に応えなければならないゲームは、プレイヤーへの指示の方法を、プレイヤーの能動性を阻害しないように、むしろ能動性を増幅させるように設計しなければならない。ではそれはいかにしてか。
 
※1 その指示の中にはプレイの本質に関わる「難易度」も含まれる。『プレイヤーはどこへ行くのか』では難易度の調整が、ストーリー理解自体に関わるものとして論じられている。

🎮 アフォーダンス理論 🎮


 ゲームの指示方法について理解するために、「アフォーダンス」という概念を導入してみよう。
 日本でのアフォーダンス理論の第一人者の佐々木正人『アフォーダンス入門』よりその定義を引用する。
「英語の動詞アフォード(afford)は「与える、提供する」などを意味する。ギブソンの造語アフォーダンス(affordance)は「環境が動物に提供するもの、用意したり備えたりするもの」であり、それはぼくらを取り囲んでいるところに潜んでいたりする意味である」
 アフォーダンスとは「環境が動物に提供するもの」であり、それらは「ぼくらを取り囲んでいるところに潜んでいる意味である」。どういうことか。
 例えば私は今スターバックスでアイスコーヒーを飲みながら机にノートパソコンを広げてこの文章をタイピングしている。こうした私の行為をアフォーダンス理論で解釈してみよう。私がこうした文章を打つことができるのは、ノートパソコンがあるからだ。しかしノートパソコンがあるからと言ってどこでもタイピングできるわけではない。スカイダイビングをしながらタイピングはできない(もしそれが可能であるとしたら、腰と並行になるように板を身体に装着し、そこにPCを括りつけるなどしなくてはならない)。だからノートパソコンを置ける台が必要だ。その台は腰と胸の間くらいの高さで、安定性を持ち水平であることが望ましいだろう。
 このように、「ノートパソコンで文章をタイピングする」という行為が成り立つためには、「水平で安定性を持ち腰と胸の間くらいの高さの台」という環境が必要なのだ。これを逆からとらえてみよう。「水平で安定性を持ち腰と胸の間くらいの高さの台」という〈環境〉があれば私はノートパソコンで文章をタイピングできる。机という〈環境〉は私にタイピングするという〈行為〉を「アフォード」している。
 このアフォーダンス理解をもっともっと敷衍して考えてみよう。そうすると、私たちの周りには、そうとわからないが知らぬうちに機能している数々のアフォーダンスに満ちていると理解できるだろう。例えば腰の高さのガードレールは座るという〈行為〉をアフォードしている。人間に限らない。むしろ動物こそこうしたアフォーダンスを通して生態系を構築しているのだ。たとえば鳩の巣。鳩は人間が作り出した人工物をアフォーダンスとして利用しているのだ。もういちど『アフォーダンス入門』から引用しよう。
「行為は何もない「空間(スペース)ではなく、アフォーダンスの充満しているところ、すなわち「環境」でおこなわれている」(74)

🎮 アフォーダンスの構築物としてのゲーム 🎮



 プレイヤーが能動性を感じられるような指示を設計する方法はどのようにして可能かという問いを立てていたのだった。アフォーダンス理論を用いることでそれに答えることができる。
 もしあなたがゲームのなかで広大な平原にいると想像してみよう。見えるのは樹木、土、空、そして目の前には切り開かれた断崖、その奥の暗がりの向こうに微かに光が瞬いている。光に導かれるようにあなたはプレイヤーを操作し断崖の方へと歩む。すると、断崖のそばにチカっと光るものがあり近づくと、そこには宝箱がある。宝箱には暗がりの奥に待ち構えているクエストを乗り越えるのに役立つ武器が格納されている。
 架空のゲームのシミュレーションをしてみたわけだが、ここでは、いくつかのアフォーダンスを通して、プレイヤーに受動性を感じさせにくい方法、能動性を感じられるやり方で指示が設計されている(※2)。断崖、断崖の奥の光、宝箱が出現する前の光がそれだ。明らかに設計者は断崖の奥に進むよう促し、その手前にある宝箱に気づいてほしいように設計している。にもかかわらず、プレイヤーはあくまで自らの操作、能動的な選択によって、前進していると意識できる。つまり、ゲームは〈環境〉を設計することでそこで行われる〈行為〉の可能性の条件を創造しているのだ。ゲームとは「指示の構築物」であると前節で述べたが、ゲームとは「アフォーダンスの構築物」とも言い換えることができるだろう(※3)。
 しかしこれは良いことでも悪いことでもない、あくまでゲームの条件を述べただけに過ぎない。この「アフォーダンスの構築物」としてのゲームは、むしろ「ゲーム害悪論」の中で強調されかねないポイントでもあるだろう。つまり、あたかも本人にその気があるかのように、その実、制作者の意図するように誘導する結果、あからさまな受動性よりも強い受動性をプレイヤーに強いているではないか、と。言い換えると、「可視的な受動性」から「不可視の受動性」へ移行しているだけではないか、ということだ。
 それはもっともである。だから筆者はあたかも自由があるかのように感じさせるゲームにはどこか欺瞞を感じてしまう。むしろゲームにとって重要なのは不自由さ、受動性であると考える。ではその受動性にはどんな意味があるのか。プレイヤーに強いられる受動性によって、プレイヤーはどんなゲーム体験を獲得するのか。

 
※2 一方で、ゲームのバグを見つけ出す、「としょ子」といったyoutuberもいる。彼がよく用いるバグプレイに「壁抜け」がある(https://www.youtube.com/watch?v=p2oPPRNlCDk)。壁とはゲーム制作者がプレイヤーの選択の可能性を制限するために用いるアフォーダンスだが、彼はゲーム設計の穴を見つけることでその制限を突破する。ゲームとは指示の構築物だが、そこには指示の漏れ=バグ=抜け穴も存在してしまいがちだ。本論の文脈では彼のプレイは、むしろそのバグ自体を〈行為〉をアフォードする〈環境〉として見つけ出すというプレイだととらえることができるだろう。

※3 アフォーダンスをデザインに応用する考え方に「ナッジ」と呼ばれるものがある。ナッジとは英語で「軽くつつく、行動をそっと後押しする」を意味する。最も有名な例だと、トイレの小便器に蠅のイラストを添えると、トイレ使用者は無意識のうちに蠅めがけて小便を行うといったものがる。蠅のイラストが指示だ。しかもそれは指示とはわからないような、指示。だからこそ、使用者の行動を、望ましい方向へと変化させたいとの望む行政や経営者の間で話題にあがることが多い。


🎮 同一化の誤認 ~キャラクターとプレイヤー~ 🎮


 ゲームがプレイヤーに与える受動性を考えるにあたって、プレイヤーが操作するキャラクターを出発点にして考えてみたい。なぜか。プレイヤーはキャラクターを操作することで、ゲームを前進させる。つまりキャラクターこそ、プレイヤーが感じる能動性/受動性を左右する変換機ともいえるからだ。プレイヤーは「アフォーダンスの構築物」としてのゲームにおける選択を、キャラクターに肩代わりさせることで行う。
 ゲームにおけるキャラクター表象は2種類ある。TPSとFPSだ。TPSとは操作するキャラクターの視点を通じてキャラクターを操作する「サードパーソンシューティング」、FPSとは操作するキャラクターの後ろ姿を見ながら、キャラクターを操作する「ファーストパーソンシューティング」の略称である。つまり、キャラクターを見ながら操作するか、「キャラクターの眼」になって操作するかの違いである。この違いは決定的にゲーム体験を左右する。
 TPS(サードパーソンシューティング)の場合、キャラクターの見た世界がそのまま画面に映るから、主人公=プレイヤーという等号があるかのように誤認させつつ進む。あたかもプレイヤーはゲーム内世界のキャラクターになりきって、彼の眼になって、ゲーム世界に参入する。
 一方で、FPS(ファーストパーソンシューティング)では、プレイヤーはキャラクターの背後を見ながらプレイする。その結果、プレイヤーとキャラクターの同一化は発生しない。プレイヤーとキャラクターは別の存在であることが前提となる。それは映画や演劇やアニメなどのジャンルと同じではないかと思うかもしれない。しかし当然だが根本的に異なるのは、彼らを操作できるという点だ。FPSゲームのプレイヤーはプレイヤーとは別の存在であるキャラクターを操作する。その結果、FPSでは、キャラクターを操作しながらも、同時にそのキャラクターは自分とは別の存在である、というねじ曲がった関係をプレイヤーはキャラクターと結ぶことになる。
 FPS視点のゲームで頻繁に、主人公が全く話さないゲームがある。例えば『ブレスオブザワイルド』や『ペルソナ5』だ。なぜ話さないのか。もし話してしまったら、キャラクターとして立ちすぎてしまうために、プレイヤーが操作することと矛盾をきたし、同一化を阻害してしまうと考えられているからだろう。何も話さないことで、その無口を、プレイヤーの気持ちを移入させる余白とすることができるのだ。
 しかしゲームの受動性に可能性の条件を見ようとする本論では、むしろ、『ブレスオブザワイルド』や『ペルソナ5』がおこなうような「同一化の誤認」(キャラクター=プレイヤー)を破綻させるゲームである『The Last of Us Part II』を扱いたい。

🎮 矛盾の顕現 『The Last of Us Part II』 🎮



 『The Last of Us Part II』(以下『Ⅱ』)は『The Last of Us Part I』(以下『Ⅰ』)の続編なので、『Ⅰ』から含めたあらすじを紹介しよう。
 物語の冒頭で、人を凶暴な姿へと変える寄生菌のパンデミックが始まる。主人公のジョエルは、パンデミック発生時に娘を亡くしてしまう。それから20年後、人類は寄生菌への解決策を見出せないまま、隔離地域と呼ばれる高い壁に囲まれた町で、寄生菌が寄生したモンスターから身を守りながら暮らしている。そんな世界で生き抜いてきたジョエルは、エリーの輸送の仕事を任される。エリーは寄生菌への抗体を持った特別な存在である。エリーをある研究所に輸送し、世界を救うために、ふたりは危険なアメリカを横断する。しかし研究所が見つかった時知らされるのは、抗体を摘出するためにはエリーを殺さなければならないという事実。そこでジョエルは研究所の人間を皆殺しにし、エリーと共に研究所を後にする。これが『Ⅰ』のあらすじだ。
 『Ⅱ』では、その後の二人が描かれる、と思いきや冒頭でジョエルは殺されてしまう。犯人は、ジョエルが殺した病院の従業員の娘アビー。アビーは生き残ったエリーに復讐するために、エリーはアビーへ復讐するために、互いを追跡する。興味深いのは、『Ⅰ』が当然ジョエルとエリーが視点人物として設定されていたのに対して、『Ⅱ』では、ジョエルが殺した病院の従業員の娘アビーとエリーの視点が交互に描かれる点だ。
 つまり、殺し合う二人をそれぞれの視点に立って操作することで、二人が相手を殺そうとする理由をプレイヤーが解できるように設計されている。にもかかわらず、その同じ操作によって、プレイヤーは復讐を遂行するという「おつかい」を指示されることになる。その結果、プレイヤーは登場人物の欲望に一体化することを拒絶される。なぜなら、プレイヤーは、キャラクターよりも上位の存在であり、殺されようとする人間(エリー/アビー)にも背景や理由があることを知っているからだ。
 かといって、すべてを知っているプレイヤーは、二人の復讐を止めることはできない。プレイヤーはキャラクターの欲望に同一化できないまま、プレイヤーの欲望と反する行為するキャラクターに指示されるがまま、プレイしつづけ、復讐を遂行しなくてはならない(※4)。前節で「可視的な受動性」「不可視の受動性」という言葉を使ったが、ここで現れているのは非常に強い「可視的な受動性」だ。キャラクターの欲望に乗れない一方でキャラクターを操作しなくてはならないという非常に強い「可視的な受動性」によって、プレイヤーはプレイするたびごとに、キャラクターと自身との矛盾を感じ続けることになる。これはキャラクターを見ながらプレイするFPSでなければ生まれない、プレイヤーとキャラクターとの矛盾だ。
 復習される/する人の双方に理由がある、というのはむしろ物語において語りつくされている題材だろう。しかしそれは人間がどれだけの経験を、教訓を、歴史を重ねてもひたすら繰り返し続けている人間の宿痾だ。フィクションとはこの人間の宿痾に対する抵抗、とも考えることができるだろう。ゲームにおいて、この宿痾に対する現時点での最も先鋭的な回答が、『Ⅱ』だ。
 物語のクライマックスでアビーが宿敵であるエリーと闘う場面がる。双方のプレイヤーを操作してきたプレイヤーは、アビーにもエリーにもそれぞれ理由があることが十分すぎるほどわかっている。にもかかわらず、ゲームはエリーと闘うことを「指示する」。本当は戦いたくないプレイヤーはゲームの指示に受動的に晒されることを通じて、「殺したくないのに殺さなくてはならない」という矛盾を、操作するプレイヤーと操作されるキャラクターの矛盾として味わうことになる。
 『Ⅱ』はゲームの本質的な条件である受動性を使い、矛盾自体を顕現させプレイヤーに感じさせることで、フィクションの課題に誠実に答えた作品であり、ここにこそ、ゲームの可能性があると本論では考えたい。


※5 この論旨の進め方は、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』における『Ever 17』読解と表裏にある。『Ever 17』は、沈没したテーマパークから脱出するという粗筋の内容だが、これもまた、プレイヤー自体のキャラクター横断性(キャラクターに見えない世界をプレイヤーは見ることができる)を、プレイ体験に内在させたゲームだ。『Ever 17』では『Ⅱ』とは逆に、プレイヤーのキャラクター横断性によって、いわばプレイヤーは全知全能性を与えられ、世界を救うキーパーソンになる。つまり、『Ever 17』はプレイヤーの能動性に力点を置く作品だ。こうしたフィクションの外部であるはずのプレイヤー自体を作品分析に含める分析方法を東浩紀は「環境分析的読解」と名付けた。本論の読解も「環境分析的読解」を踏襲しながらも、その力点を受動性の方へ向けた試みといえるだろう。

🎮 なぜゲームに熱中するのか 🎮



 本論では「受動性」に焦点を絞ってゲームについて語ってきた。「受動性」とは、ゲームを害悪だと感じる根拠であると同時にそこにこそゲームの可能性がある。『The Last of Us Part II』は、そうしたゲームの本質的な条件である「受動性」を逆手に取ることで、プレイヤーに異質なプレイ体験を与えることができたのだ。
 しかしなぜこんなにも人はゲームに熱中してしまうのだろう。
 このように仮定してみたい。人は指示されることが好きなのだ。そうして指示されることによって陰惨な世界迷い込むことになったとしても。何が正しい選択なのかのロールモデルがなくなった世界において、たくさんある選択肢の中から個人は何かしらの選択肢を選び続けなければならない。人は無限選択の網の目の中で選択することに疲弊する。ゲームは、能動的に選択するという〈行為〉を、〈環境〉を綿密に設計することで、アフォードすることができる。そのことによって人はゲームに、あるいは依存し、あるいは生の別の在り方をつかみ取る。
 ゲームとは私たち現代という時代の〈生〉の在り方に、ひどく食い込んだ表現なのだ。だからゲームを語るとは、ゲームに受動的に巻き込まれることを通して時代と接続している自身を感じながら、否定性に踏み切るギリギリのところでその可能性を探ろうとする営みであるだろう。


◎参考文献


東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社、2007
佐々木正人『アフォーダンス入門』講談社、2008
藤田直哉『ゲームが教える世界の論点』集英社、2023


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