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[お笑い批評]古賀的「不気味さ」の侵犯(「古賀」 ビジュアルバム)

映画美学校言語表現コース「ことばの学校」2期演習科課題  ビジュアルバムの「古賀」の笑いは板尾創路演じる古賀の不気味さが与える緊張が不意に緩む瞬間にもたらされる。  そもそも笑いとは、俎上にあげられた何らかのイメージに対して別様のイメージを塗布することによって生まれる。作品が視聴者に与えたイメージ(あるいはすでに視聴者が持っているイメージ)が、「共感とワンダー」(穂村弘)のちょうどいい塩梅の別様のイメージによって多重化された時に人は笑う。共感できすぎたらそれは「当たり前やん

    • [演劇批評] 肉体の疲労/キャラクターの消費 (得地弘基「お布団」『破壊された女』)

      一人芝居の『破壊された女』という「戯曲」はふたりの俳優(永瀬安美/村岡佳奈)によって「上演」される。同じ戯曲が再演されるごとに役者が異なるのは、至極当たり前のことだ。しかしこれは考えると不思議なことである。ここには「役者」と「役」はあらかじめ分節しうるという演劇の約束事が前提とされている。「役」という抽象的な人物(キャラクター)。彼/彼女は、肉体を持たない魂のみの存在であり、彼/彼女が息をできるのはフィクションという空間のみであり、フィクションが稼働するのは見られる/聞かれる

      • [MV批評] 『Ditto』の存在論 彼女たちは存在する

        映画美学校言語表現コース「ことばの学校」の佐々木敦の課題提出作品です。お題は、「NewJeansの「Ditto」の批評を書く」。 NewJeans (뉴진스) 'Ditto' Official MV(sideA) https://www.youtube.com/watch?v=pSUydWEqKwE&list=LL&index=2 NewJeans 'Ditto' Official MV (side B) https://www.youtube.com/watch?v=O

        • [ゲーム批評] プレイする矛盾

          🎮 はじめに ~ゲームへの愛憎~ 🎮  ゲームが好きだ。しかしこの「好き」には複雑な気持ちが混じっている。ゲームは他の遊び(読書、スポーツ等)に比べて劣位に置かれるような遊び、という認識を持ってきた。ゲームは、それを通じて成長できる遊びではなく、「ついついやってしまう」「抜けられなくなってしまう」ような、それをする人がひどく受動的な立場に追いやるような遊びと世間ではいまだ考えられているように思えるし(昔ならなおさら)、そうした「ゲーム害悪論」が私の超自我となって、ゲーム

        [お笑い批評]古賀的「不気味さ」の侵犯(「古賀」 ビジュアルバム)

          『すべての夜を思い出す』短評 —フレームの関節を柔らかく—

          清原椎『すべての夜を思い出す』は、フレームの関節が柔らかい映画だ。冒頭、団地の近くの原っぱに集まる演奏家たち5人を写すカメラはかれらの間をゆらめくように移動し、しまいにはかれらをフレームから外す。フレーミングとは世界を選ぶと同時に選ばない世界を切り捨てることでもある。友人を訪ねて団地を訪れた知珠が、広場で踊っている夏を見て一緒に踊りだす場面では、画面右に知珠を、そして画面の左奥にぼやけた夏を配置する。けっしてカットバックは用いず、ひとつの画面のなかで、ダンスをする夏とダンスを

          『すべての夜を思い出す』短評 —フレームの関節を柔らかく—

          あえて小説を読まない

          最近、小説をあまり読まないようにしている。哲学やエッセイなどを中心に本を読んでいる(最近読んだのは『学校するからだ』『共通感覚論』『創造性はどこからやってくるか』で、今読んでいるのは『「聴くこと」の力』『言語の本質』。) というのも、小説を読むと、小説の文体に、世界を分節する在り方が影響されすぎてしまうからだ。もちろん、そうして、影響されることの意義はとてもよくわかっている。小説をたくさん読むことで、「世界はこういう風に分節すればいいのか」というモデルケースを見せられること

          あえて小説を読まない