あえて小説を読まない

最近、小説をあまり読まないようにしている。哲学やエッセイなどを中心に本を読んでいる(最近読んだのは『学校するからだ』『共通感覚論』『創造性はどこからやってくるか』で、今読んでいるのは『「聴くこと」の力』『言語の本質』。)

というのも、小説を読むと、小説の文体に、世界を分節する在り方が影響されすぎてしまうからだ。もちろん、そうして、影響されることの意義はとてもよくわかっている。小説をたくさん読むことで、「世界はこういう風に分節すればいいのか」というモデルケースを見せられることで、自分が縛られていた分節方法から解放される、ということは、少なからず小説を読む人に共通の読書体験だと思う。

こういう段階は重要である。というのも、普通に生きることが、ある社会通念を世界の文節方法のモデルケースとして暗黙裡に採用してしまっていることであるのなら、社会通念外のモデルケースを経験することで、社会通念と距離を置くことができるからだ。社会通念外のモデルケースを何も知らない状態で表現を行うと、知らないうちに社会通念のモデルで世界を見てしまう、ということはよくあるだろう。

とはいえ、小説を読まないことにしたのは、単純に、世界の分節の仕方は自分で決めたいからだ。そうして自分で決めることにこそ、表現の真価があるのだと思ったのだ。

小説は、世界の文節をすでにしてしまっている、その分節方法に同一化をせまるように書かれている。それは当然のことだ。そうでなければ面白くない。しかしその力が強ければ強いほど、そこに影響を受けすぎてしまうことがある。すごい小説を読んで「ああ、これが描きたかったのだ...」と思ってしまうとき、本当は自分自身で見つけることのできた世界の分節方法の探求の流れが、影響を受けた作品によって、途絶えてしまうこともあると思う。

表現をする人間は、一旦そこから距離を置く段階が必要なのだと思う。そうして自分自身で世界の分節方法を、自分の五感でもって理解する。

というわけで、しばらくは、哲学/エッセイ/批評などを中心に読書しよう。

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