明日、そしてまた明日
2022年5月15日(日)。今日はヤノフスキ指揮によるNHK交響楽団の演奏会が執り行われた。会場は池袋にある東京芸術劇場、ホールは5階にある。正面の自動ドアを抜けると、果てしなく高い吹き抜けがそこにはある。エントランスの広大な立体空間に身を置くと、これから控えている演奏会への興奮をいつでも両手に確かめることができる。エスカレーターで5階まで上がれば目当てのホールがある。「待ち望んでいた今日を迎えた」という気分とともに、私たちは演奏会に臨む。今日のプログラムは、シューマン:ヴァイオリン協奏曲、シューベルト:交響曲第8番≪ザ・グレート≫だった(※以下、単に≪グレート≫と表記する)。待ちに待った演奏会であり、チケットを購入してからというもの、ずっと楽しみにしていた演奏会だったが、私は今日の演奏会に参加することができなかった。
先週7日(土)に同居している妹が世間を騒がせる流行病にかかった。濃厚接触者として、その他の家族は自宅待機期間に入ることになる。きちんと感染対策を行えば、演奏会前日には外出解禁――のはずだった。しかし――案の定ともいうべきか――9日(月)に母が陽性反応が出た。自宅待機のカウントはリセット、今日の演奏会には間に合わなくなってしまった。
正直な話を言うと、かなり悔しかった。いくらユースで購入したとはいえ、チケットをほいほい紙切れにできる額ではない。そして当然ながら、≪グレート≫に熱いモチベーションをかけていた。他の来場者と同じように、この演奏会には期待と情熱を注いでいた。とは言いながらも、なってしまったものは仕方ない。家族に気苦労をかけるわけにもいかず、とにかく後々の活動に影響が出ないように、感染対策を講じてじっと自宅待機するのが自分の仕事だった。
身の上話が長くなってしまった。≪グレート≫の話をしよう。
私が初めて≪グレート≫に出会ったのは2016年のことだった。当時は大学1年生、学生オケに入団したばかりの頃である。年度末の2月には≪未完成≫と≪グレート≫を一度に扱うプログラムが予定されていた。≪未完成≫は1年生曲であり、≪グレート≫は2年生曲である。当時の私は「≪グレート≫は仰々しいな……」「(早稲田大学の応援歌である)紺碧の空にしか聴こえない……」といった舐め腐った感想を抱いていた。他には「2年生やっぱ上手すぎだろ……」といった感想に留まっていた。要するに≪グレート≫の良さに微塵も気づいていなかったのである。
時間は流れ2017年の1月。週3回のリハーサルは佳境である。あろうことかこの時期に自分の楽譜を自宅に置いてきてしまった私は、予備の楽譜を管理している上級生に小声で楽譜を調達している最中だった。オーケストラは4楽章も終盤に差し掛かる場面だった。そして弦5部がCを4回弾いたところで、私はオーケストラの方へ咄嗟に顔を向けた。弦5部の、単なるCの音で私は気付かされた。ひとつは「オーケストラの技量」のことであり、そしてもうひとつは「≪グレート≫の持つエネルギー」のことであった。
今でもよく覚えている。私の転換点はあの日のあの場面だった。オーケストラが確実にシューベルトの要求に応えていた。少なくとも私にはそのように感じた。その日以来、最も好きな交響曲の中に≪グレート≫は必ず入っている。
C-durは天国の調性であるという話を聞いたことがある。そして、≪グレート≫はシューベルトの最高傑作であり、他の作曲家の羨望の眼差しを受けていたという話も聞いたことがある。シューベルトが観念していた理想の演奏はいかなるものであっただろうか。あの日のオーケストラはシューベルトの要求にどのように応えていたのだろうか。今日は糸口を掴めたかもしれない演奏会だった。糸口を掴むのはまだ当分先のことになったが、それに想像を膨らませながら楽しみに過ごすのも、また一興だろう。今日のところは、そのいつかの未来を楽しみにしながら眠ることにしよう。«グレート»もきっと、いつしか私を歓待してくれるに違いないのだから。
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