「評価を手放す練習」をする
「評価を手放す」
これ、今年学びたいこと。
評価をされるのは嬉しいし、やってきてよかったーって思えることでもある。だから「いつもいつも評価を手放す」みたいな浮世離れした考え方は、今のぼくにはできない。
そして逆に「評価されない」というのがとてもきつい。
「評価」には喜怒哀楽が伴うので、それも含めて人生だけど、それに苛まれる時間を減らしたい。
できれば全部捨て去ってしまいたいけれど、まぁ無理だろう。というか、そんなことできる人いんのかな。
一寸先の未来と過去を無視する
マインドフルネスが習慣化されました。毎日やってます。マインドフルネスってスピリチュアルなことではなくて、逆にめちゃくちゃ現実的なことというか。
習慣化はしたけれど、プロではない。
ただ、やってると、いかに自分が想像の未来に怯えてたりとか、過去の過ちに蝕まれてたかがわかる。
マインドフルネスの最初のステップとして「評価を手放す」という言葉があるみたいで、これを定期的にやりたい。
他人の目や耳を気にして
音楽を作ったり、映像を作ったり、詞を書いたりしていると、ふと訪れる「他者からの評価はどうだろう」という不安。
その時は没頭しているけれど、ふと「これってあの人が聴いたらどう思うんだろう」って思ってしまったり。
なんなら、この文章を書いてる時でも不安になってる。なので、ものすごく言葉を選んでいる。言葉を選らんだ上での文章でも「無難すぎないかな」「おもしろいのかな」と考えたりしてる。
見える化の罠にかかる自分
今のご時世は「評価の見える化」がすさまじい。だから、どうしても意識してしまう。見えるのは、まだいいか。しょうがない。ただその評価と共に「比較」が生まれてしまう。
「評価されたけれど、あの人にはまだ数字が及んでいない」という恐怖。この恐怖は、想像であって、他者様から聞いた話ではないし、考えてることを覗いたわけでもない。
ん、こんなネガティブな考え方は、もしかしたら自分だけかもしれない。なので、まぁぼくはとても弱い。
気付いた上で手放すという練習
わかってる。そもそも土俵、ステージ、ジャンル、違う。なのに評価や比較がつきまとう。もちろん昔からあったかもしれないけれど、とても顕著に、急に、誰もが簡単に視認できるようになっちゃった。
そこは無視するんじゃなくて、気付く。「あ、自分は今、評価を気にしてる」「あ、みんなが評価を下してる、どう思われてるか不安…」と考えた自分に気付く。
そんで、その気付いたってことを認識して、手放す。って感じでマインドフルネスの練習をしている。
だから、せめて作品作りをしているときや、休憩をしている時は、積極的に「評価を手放す練習」をしたい。
休憩したら全力で走れる自信がある
「誰かのために作品を作る」というのは、当たり前すぎる話。それは根底にあるとして、作業を進める。
ただ、たまには評価を手放してみることが真の休憩なのかも。その休憩のおかげで、ご依頼頂いている方や、作品を楽しんでくれるであろう人に全力投球できるのかもしれない。
内省して、深掘りして、見つけて磨いた芯で作品を創る
まだわかんないけれど、ちょっと「評価を手放す瞬間を増やすと楽になる」ということに気付いた、いや、気付きつつある…ぐらい。
仕事とかプライベートとか、ここは見境なく。子育ても仕事も趣味も遊びも、全部捨てて、ただ五感や呼吸に集中する時間を積極的に設けていきたい。
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