ウォール

本日日記#1

芸術について正直よく分からないし興味も無い。
誰の何時の作品で、芸術的価値が何だとかは、インテリ気取りの評論家やら批評家に任せとけばいい。個人の趣味は否定しないけど。

一応、有名な芸術家の名前くらいは知っているが、同じ人間であり他人だってことは分かる。だから興味があるのはどちらかというと作品や作者より、体験の違いだ。つまり言葉によって伝達出来る範囲の外に在るもの。言葉の壁を越えたとこに在る何かとも言えるかもしれない。

例えば腹が痛いとか頭痛がするとか、痛いという主張は理解できるが、どれくらい痛いのかは体験出来ないから絶対理解出来ない。
その絶対理解出来ない部分にずっと前から興味がある。

理論の枠内で作ったものは退化若しくは停滞と劣化を無視しなければ楽しめない。例えば同じ音楽を繰り返し聴く場合、2度目に聴く体験は、1度目の体験を失い、3度目は1度目と2度目の体験を失う。失う事を怖がったら新しい音楽は産まれない。セックスも似たようなもんなのかな。ちょっと違うか。

世界には大体70億人いるわけで、それぞれの失った体験は同じ回数分、全く違う経験として増えていく。ただしそれは交換する事が出来ない。経験を誰かと共有することしか出来ない。そうやって子孫を残すかのように過去と現在は結ばれていて、未来に続いていく。

当然だけど世の中に溢れている全ての芸術は枠内にしかない。枠外にあるものは、これから芸術になる可能性を待っているもの、進化の過程にあって常に変わり続けているものだと思う。

そうなると理論の枠外で新しいものをカタチにすることは永遠に不可能だと思った。であれば、同じものを作り続けるように違うものを作り続けるくらいで良い気がする。もちろん新しい理論を発明することは別の話だけど。

失い続ける事はとても重要な経験だと思う。失うとは、ゼロの主観からはありえないことだから。

人にしろモノにしろ全部いつかは死ぬと分かった上で生きるしか方法が無い。
何かを失ったとしても、生きる可能性を持ってるなら死んではいけないと思う。失いながらも生きられる間は生きておいたほうが良い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?