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"いつだって木漏れ日のような温もりで"

澄んだ空気。吸い込まれそうな青空。深くて甘い金木犀の香り。目を閉じたら眠ってしまいそうなほど気持ちの良い秋晴れだった。

駅から10〜15分程離れた大きな県立公園。

自然の中でのんびりと過ごしながらあれこれ話したりするこの時間、なんて贅沢なんだろう。

初めてこの公園に来た時、"あぁ。こんなふつうなことを、ずっと繰り返していきたいこの先も。"と思ったんだよなぁ。
その時に思ったり感じたりしたことは、大切に心に仕舞ってあればあるほどに、その時の温度のまま、感度のまま、蘇らせることができるんだと思う。

どんな些細な日常の中にも、抱きしめておきたいくらい愛おしい瞬間は溢れている。


10月は観劇をしたり、少し足を伸ばして公園まで歩いたり、美味しいものを食べたり、あれ?◯◯の秋とやら、意外とできているじゃんと思った。

それなのに、その時その瞬間の記録(写真)がほとんどないことに気づいた。
普段から写真を撮るという習慣がないので、うっかりしていた。
友だちといる時は任せきりだし、自分から何かにスマホを向けてカメラを起動させるということは滅多にない。
あまりに勿体ないなぁと思ったのと同時にひどく落ち込んだ。なにしろ時間は巻き戻せないんだもん。
また同じ場所で同じように写真を撮ったってだめなのだ。その時その瞬間の記録でなくっちゃ。
そんなことを思い出したようにぽつりと話したら、"文章で残ってるじゃん"と言われて、思わずハッとした。

そうだ。ちゃんと大事なことは、書き残していたんだった。
拙い言葉でも、その都度感じたことや感情を、わたしなりの言葉で、文章で、残していたんだった。

過去のnoteを読み返してみた。
そうしたら、写真がなくたって、文字からちゃんと、匂いや温度や情景が浮かび上がってきた。泣きたくなるほど嬉しかった。

本人は自分が言ったことなんて忘れているかもしれないけど、そんな何気ない言葉にこそ、心が救われたり、支えられたりしているのかも。いつもありがとうね。




10月も忙しなく過ぎ去っていくんだろうな。

"好きなの買ってきていいよ"と渡した小銭を握りしめて遠ざかる大きくて頼もしい背中を、見えなくなるまでずっと眺めていた。

いつかひとりでどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかと時々思う。
だけど、いつだってちゃんと、わたしのいるところへ帰ってくる。
そのことが当たり前だと分かっていても、いつも嬉しくて目を細めてしまう。


"何がいいか聞いてから行くの忘れちゃった"と言って差し出してくれたのは、夏のはじめにふたりで飲んだ"はちみつれもん"だった。