地方文芸の可能性
選者の流派と選の関係
とある市民文芸の表彰式に参加した。詩部門で第一位だったためだ。市民文化会館の会場で、短歌部門の選者(県歌人協会所属)が「選者の流派による違いは選に全く影響しない」と発言した。私は、それは欺瞞だ、と思った。
詩歌は飛ばす
その選者は、ご自身の流派はアララギで、お手本は万葉集だと言う。そして、現代は俵万智をはじめとしてライトヴァースやニューウェーブと呼ばれる短歌を作る人が多いという短歌史観を持っている。選後評にも
と書いている。また二回前の市役所における表彰式では俵万智さんを例に出し、現代の短歌は「第五句が急に飛んでしまう」と言った。それを選者は難点だと見做している、とその場にいた私は受け取った。ちなみに俵万智さんの短歌は比較的飛んでいない方だと私は捉えている。
詩歌は、俳句で付かず離れずと言われるように発想や喩を飛ばすことがある。もちろん飛ばさないという選択もできる。「選者の流派による違いは選に全く影響しない」という選者発言が有効になるためには、全ての選者が飛ばす愉しみも飛ばさない愉しみもそしてそのグラデーションとしての中間も理解できるという状況が前提として必要だ。しかし、少なくとも一選者は詩歌を飛ばす愉しみを理解していないか、理解しようとしていないと私は受けとめた。それからその市民文芸で私は短歌を投稿していない。
偏向と全体
詩歌の批評とは、言語的常識を措定し、そこからどのくらい喩が離れてもよいかという限界を示す営為だ。だからどのような言語的常識を措定しようがどのくらい飛ばそうが、それは選者の自由だ。そのため選はその詩歌ジャンル全体を見通しての選である必要はないし、その選者の力量に応じた選で構わないと私は考える。選には偏向があってもよい。それに、詩歌など文芸の公募は応募行為そのものが選者を信頼している証拠になる。だから選に漏れてもその選に不平を述べるのは倫理上の道理に反すると私は考える。たとえ流派に因らないはずの市民文芸の選であってもその道理は通用する。もちろん選者の選を信じるか信じないかは別の問題だけれど。
しかし「選者の流派による違いは選に全く影響しない」という選者発言は、偏向があってもいいし現に偏向の生じている選をあたかも詩歌全体を見通した選であるかのように主張している点で欺瞞だ、と捉えた。
地方文芸のための地方文芸賞へ
このような辛辣な意見を呈示したのは、市民文芸など地方文芸賞は使いようによっては地方文芸の活性を促す起爆剤になると考えるからだ。そのためには選の偏向を明示して、詩歌の本来あるべき姿を掘り出す場へ地方文芸賞を変えていきたいと考える。
詩歌の歴史や伝統はもちろん大事だ。蔑ろにはできない。ただ、詩歌の歴史や伝統を目的ではなく手段として活かしながら、地方文芸の新しい可能性を切り拓きたい。
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