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「神宮要」について・Ⅱ

 長々と書いてすみません。意外としぶとく生きているので書くことが多いと今更気付きました。またもあまり面白くはないがとりあえず私のことはわかる記事を書き続けてみます。

音ゲーとの出会い

 私は高専でデザイン科に所属していました。ただ一番楽しかったのは、正直なところ英語でした。高専二年生で英検二級をとり、TOEICで505点を出したときが最高に楽しかった。でも私はうつ病で、段々まわりが怖くなってきました。人に何を言われているのだろう、まわりの目が怖い、恐ろしい。絶えきれず英語研究室に引きこもり先生と喋ったり、保健室登校をしたりしました。が、やはり勉強にはついていけなくなりました。英語は問題なかったのですが、数学関連が特にさっぱりで、このままでは留年になってしまうと言われ、目の前が真っ暗になりました。留年だけは絶対にイヤでした。それは自分のプライドもありましたし、何より両親の経歴(というのかは謎ですが)に傷をつけるのがイヤで仕方なかったのです。だから本当に楽しい環境だったけれど、途中退学という形になり、通信制の学校へと通うようになりました。
 通信制の学校、といってもある程度は学校に行かなければならないのですが、その時に知り合った男の子がポップンミュージックをやっており、しかもめちゃくちゃ上手かったため、興味が湧きました。その頃は一人で電車にも乗れましたし、学校後はある程度自由が許されていたのでゲーセンで音ゲーとやらを見てみたのです。
 ひと目みてハマりました。なんだこれは。めちゃくちゃ楽しい。当時は5ボタンしか出来なかったりと初心者あるあるだったのですがそれでも楽しい。当時はアドベンチャーだったかな……バージョンが15で、今となっては超有名な「凛として咲く花の如く」が実装され、ハイパーを9ボタンでクリア出来たときはめちゃくちゃに嬉しかったです。例の男の子はEXに挑戦していて人外だ……と思ったり。そしてそれから隣にあった筐体に目が向きます。そう、beatmaniaIIDXです。当時はDistorteDからGOLDに移行する時期だったと思ったんですが、本当かなあ。とにかくあの台に乗ったときはものすごく緊張した。そして何も出来なかった。難しい、でも楽しい! のめり込むのに全く時間はかからず、無我夢中でできるようになった最初の☆8は嘆きの樹(N)でした。好きだったので。冥も好きです勿論。

音ゲーでの活動、苦難

 ここから先は、わかる人にだけわかってください。
 私は当時大手とされていた音ゲー情報サイトに入り浸っていました。音ゲーは新曲を解禁するために一定のランクでクリア、など様々な条件が必要だったりもしたので情報サイトというのは重宝していました。それからそのサイトで魅力的だったのは、同人誌を出していたのもあります。私は幼いころから絵を描くのが好きでした。「Xepher」「smooooch・∀・」「RESONATE 1794」……最後は少し毛色が違いますが、とにかく絵を描く人間でムービーを見たら誰もが描きたくなる、そんな願いを叶えてくれる場所、それがその場所だったのです。そこの同人誌は参加したいと絵を送れば同人誌に載せてくれました。やがていつもの参加メンバーになり、そのサイトのオリジナルキャラ(いわゆる看板娘)をも描くようになりました。そうしてその管理人からは「相方」と呼ばれるようになり、一瞬付き合ったこともあります。ただ、付き合っている最中、物凄く言いようのない違和感が私を襲って他の友人たちと相談もしたりして、すぐに別れました。
 別れたとたん、匿名の誹謗中傷が私に襲いかかりました。とある勘違いからその管理人を怒らせてしまって、それがそのサイト上で堂々と公開されたのです。当時なら誰もが知っていたであろう大手音ゲーサイトの管理人。かたや無名のいち絵描き。それは勿論、前者を信用するに決まっています。「叩き」が始まりました。(ただ、後でわかったことですが、その叩きは同じIPからで、どうもその管理人の住んでいる県のものだったというのが発覚しています。)
 ともかく、送られてくる誹謗中傷に全く見に覚えのない行為すらもあったことにされ困惑し、絶望し、絵を描くのをやめよう、ネットから消えようと考えました。それでも、当時交流のあった音ゲーの友人や尊敬する方々からアドバイスを頂き、事実をわかって頂き、なんとか今は筆を折るのだけはやめておこうと言われて救われました。こっそりひっそりと隠れるように音ゲーを少しやっていた時期もありましたが、それでもやはり周りが怖くて、どうしようもなくやめてしまいました。
 後からわかったことですが、どうも他の方ともトラブルが起きていたらしく、しかも同じようなことをしていたので次第にこちらの主張が事実であると浸透し、今はそのサイトがどうなっているのかはわかりません。
 ただひとつ、本当にこの時は辛かった。苦しくて、どうしようもありませんでした。

何をすればいいんだろう

 そんな訳でもう何をすれば良いのだろうと思った私はうつ病が最高潮になり、逆にリスカが治まりました。うつ病とは最高潮になると物理的に体が動かなくなるとその時はじめて知りました。切りたくても切れない、ご飯も喉を通らない。ひたすらベッドに毎日横になり続ける日々。当時はまだ誹謗中傷が続いていたのでネットも見るのも億劫。というか無理。
 これは詰んだな、と思ったのが、それでもイラストでした。筆を折らず、黙々と何かを描き続けました。隠れるように、というのが少しイヤでしたがそれでも何かを表現したくて描き続けました。
 それから、詩のようなものも書き始めました。携帯小説に手を出したことが実はありますが、あまりにも詩に近いためカウントしていません。あれは小説と呼べる代物ではなかった。とにかく、結局私は何かを表現し続けなければ気がすまなかったのだろうと思います。合同誌、というよりはアンソロにジャンル違いで偽名で参加したりもしたりして、地味に活動を続けていました。
 それからです。ぼんやりと、自分でも何かを作りたいと思うようになったのは。

はじめての本

 私は自分の中でノーカンにすることがよくあるのですが、一応自分の中で最初の、はじめての本は小説本ということにしています。
 が、とある方と意気投合し、その方はCDを、私はジャケットイラストと無配としてイラスト本を制作したことがあります。超中二病でいこうぜ! ということだったのでそんな感じで制作しました。トンボとか右綴じとかめちゃくちゃ調べまくって必死になって作った本は今でも一冊手元にあります。
 そして自分の小説本ですが、当然のことながら今まで制作してきたのはイラストがほとんど。でも、文豪ストレイドッグスという漫画・アニメにハマってから、小説という媒体でも二次創作というかたちで作品を発表してみました。そうしたら、ものすごいブクマ数だったんです。正直、イラストより多くてびっくりしたと同時に、今まで私は何をしてきたんだ(イラストで)とも思いました。そうか、小説。文庫本って、良いよね。そういうノリでスタートしたはじめての小説本制作でしたが苦労の連続でした。Wordとは理解できず、運良く高専時代に買っていたAdobeセットのなかにあったIndesignを起動したものの、初めて起動したソフトに何をすれば良いのかさっぱりわからず。そんなこんなで制作した本でしたが、お陰様で長期間に渡っての頒布でしたがギリギリ三桁どこかへ旅立っていきました。いや凄いな三桁って。感想もお手紙という媒体やメールで熱心なものが届いたりして、それを見て私は今までこの自らで制作するという楽しさ・嬉しさを知らなかったんだと思い知らされました。
 たかが二次創作、そう思う人もいると思います。でも私にはとっても大事な作品作りの一環です。

賞に応募してみよう、からの

 私は小説を投稿する際にPixivを使っています。元々イラスト制作をして発表の場として使っていたので、というのもあり、かなり気楽に投稿しています。気楽すぎて、寝る前に考えた小説をひとつ、賞に応募してみました。それがなんといきなり最優秀賞に選ばれてしまったのです。どうして。いやマジでどうして、としか思えませんでした。伸びるブックマーク。怯える神宮要。発表の期間中、父親に囁かれる「これはいけるかもしれない」という言葉の数々。痛みだす胃。初めての胃カメラ。初めての胃カメラで褒められる神宮要。もう何もかもがどうして、です。
 ともかく! 選ばれた時は呆然として、でもとても嬉しかったです。私にも何かできることがあった。もう左腕はリストカットの痕で傷だらけでリストカットをしている子に「それは見たことがない」と言われる程度にアレな感じのろくにバイトも出来ない身になり(コンビニ店員とかってなんで半袖なんだろう……)、在宅でイラストをほそぼそ依頼があれば受ける感じの生活をしてきた中で、第三者に「あなたの文章は一定の技術(もしくは感性などの何か)」がありますと太鼓判を押されたような気がして。それは一種の成功体験であり、うつ病である私にとってとても大事なことでした。

じゃあまた、そしてまた今度

 そうして今の私がここにいます。絵を描き、小説を書き、本を作っている「神宮要」という名前のただの人間がここにいます。あの賞をとった翌年も複数の賞をとり、どうやらマグレではなかったかもしれないと思ったり、また本を作ったりと、自己表現をなんとかしていきながら生きています。
 でも未だ、リストカットは止みません。未だに自分が生きていて良いのかわからなくなります。死にたいと明確に思い、首吊り未遂をし、措置入院(つまり閉鎖病棟行き)になったこともありますし、同人の友人関係で病み、もうどうすれば良いのかわからなくなったあげくOD(薬の過剰摂取による自殺未遂)をして入院したり(この時は開放病棟だったな)……。
 正直に言えば、未だに人間が怖いです。人間は、本当に相手を思いやることなんて出来ません。100%相手を、相手の感情の度合いを感じることが出来ないからです。その齟齬により生じる軋轢で、何かが壊れてしまうことが怖いのです。それから、本当は私のことなんて嫌いなんじゃないか、憎いんじゃないかと思うこともあります。私のことに興味なんて本当はないんじゃないかとも。そのたびに死にたくなるのだから、正しく私はメンヘラです。
 でも、だから何なんだと声高に叫びたくなる自分も、同時にいるのです。
 だから何だ。私はわたしだ。死にたいと思ったからこそ、死にたいと思う人間の気持ちが少しくらいはわかるつもりだ。完全ではないけれど、それが誰かに寄り添えたこともあった。作品に私の今までの感情や体験を込めたからこそ知り合える関係もあった。
 うつ病というのは、ハンデではありません。うつ病であったからこそわかる何かというのは少なからずあります。それをどう活かせるかどうかが私にとって考えるべきことであり、これからの活動に響いてくるのではないかなと思っています。

 さいごに。これは誰かのための日記ではありません。繰り返しすぎたODによる健忘で色々なものを忘れていく自分のための日記です。もう忘れたことすら解らないものもまだまだ沢山あるだろうけれど、それはそれで、今は今書けることを書きました。あえて書かなかったこともあるけれど。
 じゃあまた今度。どうせまた、大事な何かを忘れてしまう自分へ。

サポートとは一体なにかわかっていませんが適度に何かを書いていくと思います