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立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花

窓際で校庭を眺める君、僕にとって、日差しは、彼女にのみ降り注いでいた

うだるような7月の5限。40人のクラスメートが発する熱気が教室を蒸し返す
壁際の2台の扇風機が首を振る様は、僕らのことを憐れんでいるように見えた

彼女はいつも一人で、休み時間にはブックカバー付きの本を開いていた。僕も休み時間はもっぱら一人で、母の作った二段弁当を突いていた、下の一段はおにぎりで埋め尽くされていて、全ての具はふじっ子昆布だった

僕は意図せず弁当から目を逸らしてしまっていた、そのおかげでほうれん草のおひたしをたびたび机の上にこぼした

黒髪のロングヘアーを、時折窓から吹く風がたなびかせた、カーテンに巻き込まれながらノートに向かう君は、神秘のヴェールに包まれるヴィーナスを彷彿とさせた

僕を彩るものは少なかった(ように感じる)
学生の青春とは、君を眺める僕のことを言うのかもしれない
クラスの人気な女の子のことを「高嶺の花」と呼ぶことがあるが、僕にとっての高嶺の花は君のことだった

高嶺に咲くからこそ一輪の花はふんだんに陽を浴びて、凛と咲き、そして、誰の手にも届かないのだ

しかし、彼女の一つ不思議な点は、誰とも仲良くせず、誰とも群れず。淡い色恋に胸をときめかせているような素振りが見えなかったことだ

高嶺の花には蜂がたかる、そのようにも思える僕は、君のその佇まいは不思議なものだった。それは高嶺の花というより、日陰にひっそりと咲くミヤコワスレのようだったから

しかしそれでも、君は僕にとって高嶺の花。君を摘み取るようなことを僕はできない


夏休みに差し掛かり、僕は多目的室で文化祭の準備に勤しんでいた。仕事がひと段落して、自販機でドクターペッパーを買う。ガランという威勢のいい音。缶を包む結露、指から感じられる程よい爽快感に全身が満たされる
校庭の方に向かって、野球部の張り上げる声を耳に入れながら、ドクぺを逃し込んでいる時に、僕の教室の窓が空き、そこからカーテンがたなびくのを、僕は目にした

そこに誰かいるのか、いや、誰かなどという抽象的な表現ではなく、そこにいるあの人のことを思いながら、僕は教室に向かったのだと思う

階段を踏みしめるように、自分がこれから何をするのか、漠然と不安や期待にかられながら、一段一段を登ってゆく

教室のドアは立て付けが悪くて、ところどころでガタガタと音を立てながら、とても荒々しく開いていった

そこにいたのは、紛れもない君だった
きみはそれがいつも通りの休み時間だというように、ブックカバーをつけた厚い本をめくっていた

何か確信めいたものを、漠然とした期待を抱いて向かった僕だけれど、いざその光景を目にした時、僕は目の前の光景に目を奪われるばかりで、自分がなぜこの場に居合わせているのかを見失ってしまった

彼女は、切長の目で僕を一瞥すると、再び本の上に目を落とした

我に帰って、僕は教室を出ようとしたけれど、何もせずに出ていくというのはそれこそ不自然なことだ、僕はさも机の中に忘れ物をしたように装って自分の机に座った

といったところで、僕の机の中は空だし、机の中に忘れ物がないように覗き込んだ後、いよいよ僕がここにいる理由は無くなってしまった

どうにも間が悪くて、窓のそばまで歩いていって、遠くの街を眺めてみる
4階の教室は遠くまで見ることができて、遠くに見える海から暗雲が立ち込めているのが見えた

自分の机に戻って、飲みかけのドクぺに手をつける、少しぬるくなったそれは甘ったるい液体で、喉元でねっとりと下っていった
僕は机の上で考えるふりをしたりスマホを眺めたりして、脇目で彼女を少しずつ見ていた
ポロシャツの下の僅かにふくらむ胸元とか、本に目を落とす彼女の横顔とかを

ふと僕の耳に音が入る。咄嗟のことでどこから発せられた音なのか分からなかったけれど、少し低くて芯の入った音は紛れもなく彼女のものだった
僕は声の中身を聞きそびれて、彼女に困惑の視線を向けたら、彼女は少し呆れたようにもう一度同じことを言ったようだった

「あなたは私を見るのね」

とても聞き慣れない言葉の羅列だったが、僕はその言葉の中身をなんとか噛み砕いて、最大限の返答を心がけた

「ごめん、邪魔したね」
やはり彼女にとって僕は目障りなのだろう、席を立とうとした

「答えになってないよ」

振り返ると、彼女はその鋭い両眼で、僕の心を見透さんとしていた
背水の陣というやつか、僕も腹を括らねばなるまい

「君を見るのは、花と同じだよ、道端に美しい花が咲いていたら、僕は思わずその方を見る、花が美しいのは、そういうことなのだろうね」

彼女は少し寂しそうな顔をして、僕の両眼をのぞいていた

「私を花だというのね」

その言葉に含まれる意味は様々だと感じなくもなかったが、僕は一つの答えを絞り出して、彼女に答える

「君は僕にとっての花だよ、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。僕の祖母は僕に常々その言葉を教えてくれたよ」

「男にとって女は花なのかしら」
「さあ、その言葉を語っていたのは祖母だから、女性同士でもそうなんじゃないかな」

・・・

彼女は「ふう」と言ったように再び本に目を落とす。僕はここで教室を出てもよかったのだけれど、彼女から感じられる雰囲気は、僕が同一の空間にいることを許容しているようにも感じられた。僕にとって二択の問題ではあったけれど、僕はしばらく自分の席についていることにした

本を読む彼女、何もない僕、僕はドクぺを流れ落ちる雫を、机にふしながら眺めていた、缶の周りにできつつある水の輪は、なんとも言えない夏の景色のように思えた

・・・

一滴、二滴、水の落ちる音がする、僕も彼女も、窓の外に目をやる、暗雲は学校を覆い尽くしていた

次第に増す雨音、夏の通り雨は激しくコンクリートを打ち付けて、そこから登る蒸気が教室にまで届くようだった、教室は薄暗い気配に満たされる

彼女が本を閉じ、スクールバッグに本を仕舞い込んで、席を立つ
僕はその様子を眺めていた、歩いて駅まで。この雨の中を行くのは憂鬱だ

彼女がドアに手をかけた時、振り返って、僕の方を見た
「あなたは帰らないの?」
「この土砂降りの中では、なかなか帰る気にはなれないよ」

「そう、私、あなたと話がしてみたいんだけど」

僕も席を立つことにした、ドクぺの空き缶を軽く潰して、机に置き去りにすることにした
教室を振り返った時、薄暗い教室の中にポツンと机に佇む空き缶は、はなからそこに置かれた花瓶のようにも見えた

玄関から先、降りしきる雨、コンクリートから蒸し返す蒸気。先の方が白んで見える

彼女は躊躇もなく外に飛び出す。僕は一瞬躊躇ったけれど、彼女の後に続く

・・・
「雨が止むのを待ってもよかったんじゃない?」
「ここを通る電車はそんなに多くないよ。雨が止むのを待っていたら、学校に一泊することになるよ」
「そうかもね」
コンクリートから蒸し返す蒸気に汗ばむけれど、僕らを濡らすものが汗なのか雨なのか、もはや見分けが着くような状況ではなかった

・・・
「君は、読書がしたいのであれば、家で読まないの?クーラーの効いた部屋で、ベッドに寝転がりながら読書をする方が快適じゃない?」
「家は居心地が悪いのよ」
「そう、僕も家にいるのは嫌いだ」
「お互い色々あるってことだね、所詮、思春期は、色々なことに折り合いがつかないね」

言葉少なに駅にたどり着いて、僕らは駅のホームに立つ。僕らは二人ともタオルを持っていて、濡れた体を拭くことに勤しんだ
彼女の濡れて光る髪。うっすらと透ける薄緑の下着。僕は甘ったるいドクぺのことを思い出した

彼女は僕が降りるより二つ前の駅で降りた。彼女は僕に向かって少しはにかみながら「またね」と、美しい5本の白い指を振った。僕も「またね」と、軽く右手を上げた
彼女の降りる駅、雨はとっくに止んでいて、日差しが所々に降り注いでいた。僕は車窓から、雨上がりの濡れた街と、そこに差す日差しを、ぼんやりと眺めていた

以後、夏休みに彼女を見ることはなかった。
しばらくして彼女の名前を耳にしたのは、朝のニュースで、アナウンサーから発せられる声からだった。



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