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歴史の面白さに触れるということ

お久しぶりです。OMU世界史同好会(以下せかどう)の会長を務めております"でーでー"と申します。画像は以前会員が落書きしていたのを撮ったものです。まさに今、私たち「せかどう」は歴史を紡いでいる、略してせかdoing…

自己紹介

改めて自己紹介をしておきましょう。
大阪出身で、実家から通学しています。歴史で興味のある地域は地中海世界や東欧、西アジアなどですね。特にキリスト教ローマ帝国東方領、すなわちビザンツ帝国に興味があります。大阪市立大学に入ったのもそれが理由ですね。そのため、今はギリシア語やラテン語を学んでいるところです。また、せかどうに生息しているおばけの影響で民俗学にも沼りかけています。その他には、アニメや漫画、映画、文学における表現の変遷、その時代背景に興味があります。『進撃の巨人』と『ジョジョの奇妙な冒険』が大好きです。もちろん他に好きな作品はいくらでも挙げれるのですが、最近のものだと、『SPY×FAMILY』が面白いですね、原作も買ってしまいました。

はじめに

さて、それでは本題に入っていきましょう。タイトルに「歴史の面白さに触れる」とありますが、これはせかどうの理念となっておりまして、正確には「歴史の面白さに触れるきっかけをつくる」ですね。そんなせかどうに、17人もの新入会員が加わってくれました(5/4時点)。これだけの人数が集まったのは、ひとえに新歓・広報課をはじめとする会員たちの素晴らしい仕事振りのおかげです。感謝してもし切れません。ありがとう。

そんなこんなで、今後まだまだ新入生が入るかもしれない現状を考慮すれば、せかどうがどのようなサークルなのか、いま一度述べる必要があると思ったわけです。しかし、活動内容の紹介といった情報は、優秀な新歓・広報課の方々のおかげで容易く触れることができます(Twitterやインスタを見てね)。そういうわけでここでは趣向を変え、せかどうの理念を出発点として「歴史とは何か」という使い古されたお題目でつらつらと書いていきます。読んだ本の内容アウトプットしたいだけなのでは

「歴史」とは何か

さて、みなさんは「歴史」とは何だと思いますか?あるいは何を思い浮かべますか?私自身は「この世の事象は広義世界史」と認識しています。うちの副会長がそう言ってたのでそうなんだと思います。何言ってるんだと思った方は、最後まで読んでいただけると幸いです。皆さんにとってはやはり、学校で習った日本史や世界史が馴染み深いのではないでしょうか。あるいは歴史小説で描かれる群像劇などを思い浮かべる人もいるかもしれません。歴史教科書をパラパラとめくれば、以下のような記述が目に入ります。

「紀元前27年、ローマ帝国が成立した」

「330年、コンスタンティヌス1世が首都をローマからコンスタンティノープルへ遷都した」

「第一次世界大戦は1914年7月28日に始まった」

そして、なぜそのような事件が起こったのかを説明するための背景や流れが、前後に書かれていることでしょう。しかし、これらは後世の人々が定義していることであって、紀元前27年に生きていた人々は別にこの年に「ローマ帝国」が成立したとは思っていないでしょうし、330年にコンスタンティノープルへ遷都したと言えるかどうかには長い論争があり、今も大きな論点であると言えます。第一次世界大戦の開戦日というのも、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに侵攻した日です。この日以降、連鎖的に戦火が世界中に広がったという点で、それらをまとめて第一次世界大戦と呼ぼうと、後になって人々が言い出したわけです。1914年当時の日本人に、「あっ今日世界大戦が始まったんだ」という認識があったとは言えないでしょう。

もはや、歴史学におけるクリシェですが、E.H.カーという歴史家は「歴史とは過去と現在の絶え間のない対話である」と言っています。現在生きている私たちがどの時点の過去を選び、どのように見るかによって、掬われる事実もあれば、取りこぼされる事実もあるということが分かりますね。その上、全てのデータが残っているなんてことはありえませんし、1人の人間が扱えるデータには限界があります。そして、歴史を書く人間もその時代の影響を受けるために完全に客観的な歴史記述なんてものはこの世に存在しません。その性質上、学説も複数、いや星の数ほど出てくることになります。こういうことを言うと「歴史には複数の解釈があり得るなら事実なんて存在しないんじゃないか」「歴史なんてよく出来たフィクションなんじゃないか」と考える人がいるかもしれません。しかし、このような主張に対してはE.H.カーの使い古された引用を再び。

「見る角度が違うと、山の形が違って見えるからといって、もともと山は客観的に存在しないとか、無限の山があるということにはならない」E.H.カー『歴史とは何か』より引用

山の部分を事実に変えてみれば分かりやすいでしょう。歴史学は、事実は存在するという前提に立って成立する学問です。そして、歴史家たちは様々な方法によって過去の世界を再現しようとします。しかし、歴史家も人間である以上、その再現は不完全にならざるを得ません。提唱された歴史解釈は常に専門家集団によって検証されることで、より確かな解釈に近づいていきます。この過程を未来永劫繰り返していく、それが歴史学の営みだと言えるでしょう。

そんな営みの中で、人々は残っているデータやその集団的記憶から「重大事件だ」「転換点だ」と感じるものを選びとってきました。私たちも日常的にそれに触れています。例えば、日本の多くの高校では、日本史や世界史を政治・外交に沿った流れで学びます。それが悪いわけではなく、他の視点に沿ったものもあり得るということです。
また、新しい教育課程で採用された「歴史総合」という社会科目でも、近代という時代を重視しています。それは近代が、いま私たちが生きる現代に直接大きな影響を与えていると考えられているからでしょう。

私たちは日々無数の選択をして暮らしています。それらが積み重なったものを後から振り返って見たもの、それもまた「歴史」と言えるでしょう。私たちは自分たちが見る「歴史」をも選択しているのです。このような歴史への接し方は、最近始まったものではありません。それにも歴史があるのです。例えば、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスも以下のようなことを言っています。

「ここに我が調査の結果を記す。時間と共に人間の仕事が失われ、ギリシア人やバルバロイが達成した"偉大な業績"が忘れられることを防ぐためである。」ヘロドトス『歴史』より引用

この他にも多くの歴史家は偉大な業績を後世に伝えるために歴史を紡ぐのだと言及しています。しかし、本当にそれだけが歴史と呼べるものなのでしょうか?今、あなたがこの文章を読んでいる間にも時は不断に流れていくわけですが、この過ぎ去った時間、あなたが今日大学に行き、講義を受けて空きコマに友達と駄弁った時間は「歴史」と呼べないのでしょうか?もしそうなら、それはなぜでしょうか?偉大ではなく平凡だからでしょうか?では一体、その基準は誰が決めるのでしょうか?これらの問いに答えるにあたって無くてはならない要素は、すなわち「人間」でしょう。人間は価値基準を創り出し、それに基づいて物事を判断しているからです。ならば、一般的に偉大ではないと言われるものだって歴史として書いて良いのではないか?私たちが生きる日々はかけがえのないもので、そんな小さな歴史も立派な歴史叙述になるのではないか?もっと自由に捉えることができるんじゃないのか?このような主張があってもおかしくありません。19世紀以来、これらの視点から出てきた試みは民衆史、社会史、心性史、生活史、感情史、エゴ・ヒストリーなど、様々な形で発展しつつあります。これらは言語学や民俗学、文化人類学、社会学、心理学など他分野からの影響を受けています。まさに越境する歴史学と言えるでしょう。その他には、国家の枠組みを飛び出し大きな視座に立って世界を見るグローバル・ヒストリーも新しい試みの一つです。もちろん、その有効性や実証性は別に問われるべきですが、その詳しい内容についてはまた別の機会に。

ここで言いたいのは、過去を知るための方法や視点は様々であり、私たちが今まで触れてきたどのような世界も全て「歴史」の上に成り立っているということです。よく考えてみれば当然の様に思われますが、これを意識しながら、違った視点でいつもの景色を見つめてみませんか。平凡に感じられた世界が一気に異世界へと変貌を遂げるかもしれません。

ここまで読んでいただければ、冒頭で述べた「この世の事象は大体世界史」も過言ではないのかもしれない。そう感じてしまったそこのあなた、朗報です。OMU世界史同好会はそんな方々にピッタリのサークルとなっております。せかどうは、歴史に興味のある人々だけではなく、歴史が苦手だという人々にも門戸を開けています。敷居が低いということですね。いつもの見慣れた世界を歴史的観点で見る。そして「歴史は意外と身近にあるものなんだ」と肌で感じ、その面白さに触れる。私たち、せかどうはそんなサークルなのです。

おわりに

なんだか偉そうなことを言ってしまいましたが、どうか大目に見てやってください。ところで、世界史同好会なんてものをやって何になるんだ、何で歴史なんて「役に立たない」ものに時間を割いているんだ、そんな風に言われたことは幸いにもまだ無いのですが、夜更かしなんてしている時にはそんな気分になることもしばしば。余裕のない厳しい世の中では、人々は現実を生き抜く術や「役に立つ」ことだけを追い求めがちです。みんな生きることに必死なのです。当たり前ですね。しかし、どのように生きたとしても、人間誰しも最終的には灰となり土に還るわけです。そうは言っても、生まれてきた以上はそこへ向かっていくしかありません。すぐ終わらせたいって?いやいや、少し待って周囲を見渡してみてください。

悠久の時を経て、名も知らぬ人々から繋いできた命や伝わってきた「歴史」が、私たちの周りには溢れかえっています。普段、意識しないから気づかないだけです。それらに触れることで、その重厚感と息遣いを感じ、時には彼らの言葉や在り方に救われることもあるかもしれません。

歴史に触れるということは、それ自体が好奇心と想像力を搔き立てる営みであり、生きる楽しみにもなり得るのです。かのアリストテレスも「人は大地と海を支配せずとも、美しいことを為すことができる」と言っています。せかどうがそんな楽しみを分かち合う場として存在できたなら、創設者としてまさに望外の喜びです。

影響を受けた本
井上浩一『歴史学の慰め』白水社、2020年
カー・E.H. (清水幾多郎訳)『歴史とは何か』岩波書店、1962年
岸政彦『東京の生活史』筑摩書房、2021年
武井彩佳『歴史修正主義』中公新書、2021年
東京大学教養学部歴史学部会『東大連続講義 歴史学の思考法』岩波書店、2021年
東京大学歴史科学研究会『歴史を学ぶ人々のために』岩波書店、2017年
長谷川貴彦著『現代歴史学の展望』岩波書店、2016年
長谷川貴彦編『エゴ・ドキュメントの歴史学』岩波書店、2020年
バーバラ・H.ローゼンワインほか『感情史とは何か』岩波書店、2012年


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