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ちょうどよく知れない

「ちょうどよく」知るにはどうしたらいいんだろう。
知れば知るほど不幸になる。
知れば知るほど、今までなんの疑いもなく幸せだと思っていた生活にメスを入れることになる。

枠にはまることが幸せである人もいることを、今更ながら知る。というか、これがマジョリティなんだろう。
大雑把に言えば、政治とかジェンダーとか。
結婚して自分の名字を選択できなくても幸せな人。女性として見られて男性を癒やす役割に落ち着くことが幸せな人。税金をたくさん払っても今の生活が支障なく送れていれば幸せな人。外国から稼ぎに来て知らず知らずに差別されていても稼げたら幸せな人。
誤解しないでほしい。上記の例は批判じゃない。その人が幸せでよければいい、に尽きる。それは悪いことじゃない。
難しいのは、何かを変えるためには、ひとりひとりの声が必要なときもあるということだ。

私は、何か変えたいと思ったら、すぐに声をあげてしまうところがある。
でも声をあげることで、誰かの生活に気づきを与えてしまい、その人の今までの幸せを壊す可能性もある。
その時、私は責任を取れない。そう思うと、よかれと思った行動が本当にいいことなのか、分からなくなる。

でも、私さえよければいい、という考えは、私はしたくない。
「私さえよければいい」の「私」の指標が、いつずれるか分からないこと(いつ自分が病気や障害をもつか分からないこと)。私にとっての他人が誰かの大事な人であること。社会にこれから生まれてくる人たちがいること。
そう思うと、代償があっても、声をあげないといけない場面がある、と私は思う。
けれど、代償を無視してはいけない。行きすぎた善は悪だ。善だと思い込んで突き進んでしまうのは本当に怖い。

理想を求めるためには必ず代償を伴うことにまず自覚的でなければいけないと、今更ながらに思う。
だからといって、知らないという選択は絶対にしたくない。
しない。

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