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阿寺渓谷と恋札

長野県大桑村阿寺(あでら)。その場所に流れる木曽川の枝流、全長15キロほどの阿寺川は、水がサファイア色で透明、細かな起伏の合間で、ゆったりと溜り流れる水面を見ていると、気持ちがすうーっとしてくる。
H27年日本遺産に認定。H28年には文化伝統を語るストーリー「木曽路は全て山の中」が認定、阿寺川や阿寺渓谷はその構成要素の一つとなった。


赤彦吊り橋

阿寺川河口から上流に向かって10キロほど場所に、島木赤彦の名前を借りた吊橋があり、傍らに歌の掘られた石碑が建つ。赤彦で反応したのは彼が長野県諏訪郡上諏訪村(今の諏訪市)出身の歌人だから.........

........だけではなく、下諏訪に、湯に木札を浮かべ恋を占うことができる温泉旅館があることを思い出したからだ。その占いの名前を『恋札』という。


恋札

表は神様、裏側に赤彦の歌が書かれており、湯の中で一枚一枚を浮かべて、表が出ればその恋は実り、裏が出ればなんとやら。どうやらこの歌は、赤彦が妻子を持ちながら中原静子という女性に宛てたものらしく、恋が実らなかった象徴として使われているらしく。甚だ恋愛の歌人だったのかな。という印象を持っていた程度の興味でしかなかった。

そんな印象しか無かった島木赤彦の名前を、大桑村の清流のほとりで見かけたわけだ。そして、吊橋の名前となったその所以も看板に見つけることができた。どうやら、明治40年交流を深めていた歌人で小説家の伊藤左千夫が京都に行くことを知った赤彦が、木曽路の途中まで出ていくので、そこで会いましょうと手紙を綴り、その約束を承諾した伊藤左千夫とこの場所で出会ったとある。当時まだ鉄道が無かった頃で、中央本線はやっと岡谷駅まで開通していたと見ると、赤彦は下諏訪から徒歩でここまで歩いて来たことになる。車でも2時間程度はかかる場所だ。Googleで徒歩検索すると、ごん兵衛トンネル使っても17時間。明治40年頃の木曽路。険しさは計り知れない。
彼は、何を思い、歩き、考え、伊藤とどんな話をしたのだろう。


柿乃村人

実際に彼が、『島木赤彦』を正式に名乗ったのは、大正2年。短歌雑誌「アララギ」の何度となくある廃刊の危機を、教師の仕事を辞めて東京に出向き、斎藤茂吉と再建に生力を注いでいる頃だった。(注1:『赤彦』の名前も、恋札の歌の相手、中原静子が関係しているというから、まあ『恋札』として使われてしまってもしょうがないかな。とも感じた。)
それまで名乗っていた号は『柿乃村人』。よって、阿寺のこの場所は正確には『柿乃吊り橋』でも良かったのもしれないな。

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東京雑司が谷でしばらく家族と過ごした後、下諏訪の柿蔭山房(しいんさんぼう)と名付けた住居でその生涯を閉じる。享年50歳くらいだったという。

阿寺渓谷で見つけた名前から、諏訪の地に居た歌人の人生を見つけ、想像することができた。


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