見出し画像

意外と簡単?にクリアできる(かもしれない)社会人博士のハードル

前回の記事は実は4月頃に8割くらい書いて「いい加減出さねば」と思って書き足したために、いささか冗長な文章となってしまいました。また、「俺はこんな大変なことをやり切ったぜ」マウントを取った文章になっていないか大変気がかりでしたが、概ね好意的に読んで頂けたようでほっとしています。

一方で、「やはり大変なのですね」という印象を強く持たれた方もいるようですので「そそそそ、そんなことはないですよ」ともう少し突っ込んだことも書いておこうと思います。この記事では、ぱっと見キツそうだけど意外とあんまり問題にならない(かもしれない)ことについてまとめてみます。


10万文字のハードル

まずやはりこれが気になる方が多いようです。博士論文としてこんなにたくさん書けるだろうか、というものです。10万と言うのは便宜的に表現として用いただけですが、どの大学院においても博士論文の要件として「〇万字以上」というものがあるはずです。この分量に面食らうわけですね。普通に生きていて一つの著作としてこんなに長い文章を作ることはありません。気合いの入ったブログでも1万とかじゃないでしょうか。

のっけから身も蓋もないのですが、実はこの点についてはあんまり問題にならないだろうと思います。私の周囲で博士論文提出前に「あと〇文字足りない!」と言って困っている人は見たことがありません(卒論ではいましたが)。

これには2つの理由があります。

まず、博士論文は何もない状態からいきなり書き始める物ではありません。多くの場合、複数の研究を一つにする形になります。違う時期に作った複数の論文を再編集するという場合もあれば、実質的に複数の調査・分析が混在するという場合もあります。この辺りは論文の制作スタイルや大学の規定、指導教員からの指導などで様々ですが、大切なのは「複数の研究がワンパッケージになる」と言うところです。

例えば、ある学会では査読投稿の際の文字量は25,000文字です。3本の研究があると単純計算で75,000文字になるわけです。レビュー論文1本、実際の調査、分析を2本やると3本分くらいの研究にはなりますね。これに肉付けをしていくと、気が付いたら10万くらいは書けているという事が多いのです。

2つ目の理由はその肉付けの部分にあります。これは無駄な話をダラダラと書けと言っているのではありません。言葉の定義や、概念の歴史的議論の整理などを丁寧に追っていくと自然と書かざるを得なくなるのです。

例えばある事象について「制度が問題だ!」と言いたい時、「制度」という単語がこれまでどのように用いられてきたのかを整理した上で自分がどういう背景、意図をもってその言葉を使うのかを明らかにせねばなりません。特に経営学は社会学や心理学などから概念を拝借することも多い分野です。そのため、経営学と言うフィールドにおいて何故その概念を用いるのか、どういう意味で用いるのか、などを明らかにしないと議論が進まないのです。

また、定性的な言及をする時には「厚い記述」が求められます。これは仮にあなたがフィールドワークで特徴的な行動や事象を目にしたとして、それだけを記述しても読み手には全く伝わらないので前後の文脈を含めて丁寧に記述をせねばならないというものです。この代表例としてよく挙げられるのがクリフォード・ギアーツが解説した少年のまばたき、目配せです。ある少年がまばたきをした時、目にゴミが入った反射的行動なのか、目が乾いたことによる生理的な現象なのか、はたまた、他の少年に対する意図的な目配せだったのか、表面的な現象を記述するだけではわかりません。その行為や現象が社会的にどのような意味があるのかが分かるように記述されることが必要なのです。

こういったことをしていると必然的に1つのことを言おうとしたときの記述量が増すことになります。「わが社ではイノベーションが起きないのでイノベーターの行動に着目してその特徴を明らかにした」と言おうとしたとき、そもそもイノベーションやイノベーターとは何かという言葉の定義から始まり、イノベーター具体的な行動がどのようなもので、それに意味があると結論付けるにあたって社会的文脈や周囲の人の反応などを詳細に記述しないといけないわけです。

そうすると、必然的に博士論文を書き上げることには各セクションで最低でも次のような分量になっているのではないかと思います。

※文字数はかなり適当です。10万をざっくり割り振ったらこんな感じかなと言う感覚で、代表的な例として挙げる物ではありません。実際は研究内容や分析結果をしっかり書けば書く程増えます。

つまり、10万字は結果として書くことになる物であって、そこに至る過程自体が大変という事ですね。逆に、博論を出そうという段になれば調べたことや学んだことが多過ぎて「こんなに全部盛り込んでは何が言いたいかわからない」と言われる人も多いのではないかと思います。相当な時間と労力をかけただけに、全部言いたくなるのです。従って、博士論文は書くのが大変なものと言うよりは削るのが大変な作業ではないかと言うのが私の感覚です。

時間は無いようである

次に前回くどいくらい書いた時間の話です。舌の根も乾かぬうちに真逆のことを言うようで大変恐縮なのですが、この事に関する悩みは入学時点で半分くらいは解消するのではないかと思います。なぜなら、結局時間の話と言うのは優先順位の問題だからです。

確かに博士課程でやらなければならないことは大量で、その難易度も高いです。まさか皆さんも「適当にやってれば3年で出られるんでしょ」とは思っておられないと思います。それだけに、もし入学すると決められたのならその時にはもう「時間を作らねば」という意識に変わっているはずです。時間つぶしにしかなっていないスマホアプリを消す、SNSを使わない、趣味を封印する、家族旅行は控える、家族のサポートを取り付ける、一日の時間の使い方を考える…など、自ずと博士課程を乗り越えていくための準備を始めるでしょう。

まぁ、入学時点でもしこれができなかったとしても、必然的にそうせざるを得なくなりますし、入学前でも一度上記のようなことを考えてみると良いと思います(それでもやらなかったらズルズルと在籍期間が延びて学位が取れないまま終わるだけなのですが)。

もう半分は、それでもどうにもならないものです。急に訪れる仕事の転機、家庭の問題、病気やけがなど…。この辺りは、「3年で学位を取る!」という事情がない限りは多少在籍期間を長めにとるなどして戦略的に動いていく必要があります。が、逆に言えば長期戦覚悟で腰を落ち着ければ、ある程度吸収できる範囲であるとも言えます。

大切なのは自分なりのリズム(と、ご家族がある場合はその理解)なので、それを作ることさえできれば何とかなるのです。毎日不眠不休でやるような生活は当然続きませんから(提出直前とかはそうなりますがw)、大変とは言え自分なりにどういうペースでやれば行けるかを考えておけばOKという事になります。漠然とした「大変そう」という不安は「1日4時間なら時間が作れそうだな」という感覚が得られれば消え去ります。

余談ですが、3年で出たい(早く終わらせたい)という気持ちはよく分かるのですが、それを第一としてしまうとおそらく審査で落ちます。ただでさえ限られた時間で研究を進めるのに、その評価軸は一般院生と同等。陸上に例えれば、横では全速力で休みなく走っている人がいるのに、あなたは定期的に立ち止まらなければならないという状況です。結果として走り切れたとしても、その内容が伴わなければ意味がありません。博士論文はあなたの最初の代表作となります。「出ることを目標」に書いても、その後に続かないのではないかと思います。

研究者も(脳の)筋トレで作られている

社会人は往々にして実務の世界の課題を念頭に研究活動をスタートしてしまいがちです。これまで研究らしい事をしたことがなく、日々切実な問題としてその課題に関わっている方からすればそれは当然でとも言えましょう。この時働いているのは、「実務家の頭」です。

これ自体は悪いことだとは思いません。研究には、特に経営学には実際的な問題に対する貢献も重要なポイントだからです。また、生粋の研究者では体験し得ない現場の感覚は独創的な研究を生み出す源泉にもなり得ます。しかしそれだけでは片手落ちなので、そのテーマを学術的にもやる意味があるかを主張できなければなりません。この道筋をしっかり説明するために必要なのが、「研究者の頭」です。

研究者の頭を持つ人の特徴はいろいろとあるのですが、挙げだすときりがないのでここでは「問いを立てる力」としておきます。

研究として価値のある問いを立てるには、それが解決したときに与える実務絵のインパクトもさることながら学術的な理論や概念を発展させるものである必要もあります。そんなふうに書くと、このハードルはとても難しく感じるかもしれません。理念! 概念! とか言われたら、そんなものを発展させるのは天才の所業に思えますね。

まず安心いただきたいのは、ここで言う発展とは天動説を地動説にするような話ではありません。先人の研究に、一つの小石を乗せるようなイメージです。大事なのは先人の研究にという部分で、この小石の置き所を間違うと「その研究は意味があるんかね?」と聞かれることになります。

そして、そのために問いを立てるわけですが、それについても解決法があります。それは、「ひたすら論文を読みまくって整理する」です。天才しかできない作業ではなく、割と脳筋な話なのです。

当然元から持っている論理構成力や発想力などで、この整理の速度が段違いな人や、「その文献からそんな発想する!?」という天才がいるのも事実ですが、それはあなたの話ではないので気にする必要はありません。我々のような凡人はひたすら地道に、インプットの量を増やすしかないのです。やるしかないのだから、やる、と言うだけです。どうでしょう、ビジネスパーソンであれば経験があるのではないでしょうか。顧客への数百件の電話、山ほど作ったコピーライトやデザイン案、何回も修正したプレゼン資料…などなど、結局ここでも筋トレのように繰り返すことがあなたの地力になるのです。

ここでは割愛しますが、論文整理についてはそれなりにメソッドもありますので無手で挑めという事はありません。そしてそれに基づいてひたすら量をこなすことで初めて見えてくる世界があります。これは禊のようなもので、それをやった人とそうでない人では明らかに発言の質が変わります。ゼミを例に挙げると、他の方の発表を聞いたときに先行研究とRQの関係性の違和感に気づいたり、分析データの扱いや解釈についての指摘が増えます。おそらく、論文と言う論理の権化みたいな文章をシャワーのように浴び続けることで自身の論理構成力(と研究というものへの理解)が高まる事と、純粋に専門知識量が増えることによって、今している話を頭の中の地図に位置づけられるからだと思います。

人の研究を聞いたり偉大な論文を読むと「自分もできるのか」と不安になるかもしれませんが、あなたがやろうとしていることはそれらと同等の物ではなく、そこに至る第一歩を踏み出す事です。ですから、いきなり高い山を見てビビる必要はありません。ひたすら地道に筋トレする覚悟で挑めば、それなりの地力は確実につきます。

おわりに

ご、五千文字になってしまった…。今回も長くなりすぎたのでこの辺で止めておきますが、博士課程でぶつかるハードルの大半は、覚悟さえ決めてしまえば何とかなるという類のものが結構あります。「お前は終わったからそう言えるんだろう」というご批判もあるかと思いますし、ここに書いていることはn=1の主観的な内容である事も事実です。生存者バイアスにまみれていると思います。ただ、覚悟を決めない事には始まらないのもまた事実であり、誰かが助けてくれるわけではないので「できるかどうかではなく、どうやったらできるかを考える」の精神で取り組む他はないのが現実です。その気概を持ってご自身の足で歩いてみて、その時見えたものを正として進んでいただけたらと思います。

まぁ、覚悟を決めるのが一番難しい、という話もあるんですけどね…。