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世界は「関係」でできてる?わきゃぁない。

自慢してやろう

スティーブホーキング以来の大天才のカルロ・ロヴェッリの著書
世界は「関係」でできている

その本を友人からプレゼントされ読み進めていくと、ふと自分が昔に
令和哲学カフェという真理を発信する場で、プレゼンしたのを思い出した。


自分が宗教を10年間熱心にやっていたのもあり、「仏教と量子力学」という
テーマでcanvaで、せこせこ、あーでもない、こーでもない、と資料を作って、

過去を振り返ってみると、自分なりに会心の一撃だったプレゼンテーションだった、と自負している。

しちゃっている。

そのプレゼンの資料で量子力学のシュレティンガーの猫のパートで自分が語った
内容と、天才物理学者のカルロが言っていることが一緒だったので、

「自慢してやろう」と能力主義野郎のスタンドが発動したので、キーボートを叩いている最中。

もし本を手にしているならば、P89の2ページに書かれている
「眠っても、起きてもいない」という箇所なので、そこを再度、読んでみて欲しい。

その言葉のいわんとしていることが自分のイメージと似ている、ということで
それを解析してみたいと思う。

ちなみに、シュレティンガーの猫の、生きてる、死んでいる、のくだりのプレゼンは下記のもの ↓
(※カルロは、この本の中では、起きてる、寝ている、と表現しているが)

令和哲学カフェ・仏教と量子力学のプレゼンより

さらに自慢してやろう

カルロが言っていることの要約としては、例えば、中西という自分が「猫が寝ている」もしくは「起きている」という2つのどちらかの現象に出会ったとする。

その現象に対して、乱暴でシンプルな言い方をすると、別の人(ここではカルロ)は、知ったこっちゃない、ということになる。

つまりは、猫が寝ているか、起きているか、それは、カルロには皆目検討がつかない。
だって自分とは関係ないじゃん、みたいな感じ、になる。

さらに言うならば、このポイントは、観測者自身も、主体にあらず。

つまりは、観測している人すらも、誰か別の観測者がいるという客体になってしまうという着目した発想で成り立っている。

ふつーは、観測者は研究者の人間であるから、その人間が絶対正しい!という
人間が不完全な認識の生き物だ、ということを到底認めず、

いつまでたっても科学、物理の発展の青天井を打ち破ることができない「強烈な思い込み」に囚われてしまっている。

が!

それを破壊しているから、

とても良い。

なかなか、いい。

やるな、カルロ。

そんな殿堂入りするような最高ファインプレーをするというカルロ自身も
自信をもって言い切ってない、ところが謙虚というか、なんというか。

「美しくも過激な量子論」というタイトルにもあるとおり、事実は相対的であるし、「過激だ」とも語っている。

P90では、こんな不安げな様相で文章を読者に投げかけている。
「どうか、読者のみなさんが、この直前の微妙でありながら本質的な議論を読み進めるなかで、この本を投げ出したりしておられませんように・・・。」

と大丈夫かな、みんな着いて来れるかな?と不安げな趣が窺える。

もっと自慢してやろうぅ

量子力学の世界に、観測者自身も客体として捉えた観点は、大きく物理学を進化させると思う。

けど、さらにもっと飛躍した理論展開にはなるが、真理なのでここで語ってしまうと、
さっき、中西が猫が寝ている、起きている、のどっちかを見たけど、それをカルロは、どっちを見たのかは知らない、分からない、という解析だったが。

真理からみると、中西が猫が寝ている、起きている、も、どっちもない、ということになる。

つまりは、猫は寝てもないし、起きてもない、ということ。

その寝てもない、起きてもない、ということはリアルじゃなく、現実に起こってないことを意味するので、

猫も、人間の中西も錯覚であり、偽物、ホログラムである、ということになる。

だから、猫もいないし、猫がいないんだから、猫が寝てるも、起きてるもない。

そして、ここからが超大事なポイントになるけど、

じゃぁ、その錯覚の観測者の中西や、猫、をさらに俯瞰してみている主体は、なんなのか?

そう。

さっきの図を、ここに引っ張り出してみてみると一目瞭然。

真理そのものである、本当の自分が見ている。

その本当の自分が完全という全体をみる目をもっており、人間が部分しかキャッチできないのも理解でき、

さらに、シュレティンガーの猫の寝ている、起きている、の思惟実験は、
真理からこの錯覚現実画面をみていることを言っているのであって、

その思惟実験は真理のことを語っているにも関わらずに、真理の目からではなく、

部分情報しかキャッチできない人間の目に当てはめようとして、パニックになっているに他ならない。

と、ここまで文章をしたためてみて、改めてnTech(認識技術)の圧倒的な解析能力に心が震える次第だけど、

この内容を理解してくれる人がいるかな、と一抹の不安を隠しきれんー。

さらに自慢してやろうー

もうご存知の方は「あ?」なにこれ!と突っ込むを受けているかもしれないが、
カルロ・ロヴェッリの著 世界は関係でできている は、赤い本であり、

自分がnoteのタイトルにあげた画像は、青だし、関係性で「できてない」と、
否定しているような文字を挟んでいる。

そう。

そのとーり。

真理のあなたそのものは、この相対世界とは、実は一切関係がない状態になる。

関係ないけど、「関係ある」という矛盾。

まるで、日本の間から生まれた、わびさびの概念のように、綺麗だけど、汚い、みたいな両極端が1つにまとまっているかのよう。

その一見、矛盾を孕んでいるプラス的、マイナス的な要素が1つに融合されちゃっている日本文明。

いきなり文明の話しになっちゃけど、その日本文明と悟りは、すごく相性がバッチリであり、
日本の日の丸が象徴しているように、間を通過して人類は、悟りに到達することになる。

それは、物理、科学をまったくかじったことのない中西が、天才物理学者の言っていることを補えるぐらいのイメージがあることから、

そのパワー、その破壊力、その解析能力から窺えるんじゃないだろうか。

自慢しちゃおー、っていう文字には、nTech(認識技術)が凄いから、学んで欲しいー、という意味が込められている。

こうやって、量子力学の世界の解析ができ、どんな世界、宇宙、構造になっているのかを理解、納得、確信することは、

自分と世界が繋がっている安心にもつながるので、結果的に、安心、信頼の人間関係が構築できるという

超お得なメリットが含まれている。

世界は「関係」でできてる?わきゃぁない。
→これを理解できたら、逆に世界との関係性がバッチリ♪理解できるという矛盾を
ぜひ、体感して欲しいです。

では、今日は、カルロ・ロヴェッリと会話した気分になった発信になりましたが、
如何だったでしょうか?

クレームがない程度にコメントくれると嬉しいです。

では、またっ。

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