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生きるに関するセンスとタイラーメン

はじめに

あっという間にもう10月が終わりそうです。
認定セラピストになるための講習を受けてその宿題をこなしながら毎日のルーティンワーク含めてバタバタとしています。
倒れたり寝込んだりすることもなく、逆に体を少しずつ動かせるようになってきました。アプリで数十分運動するだけですが、血流があっという間に良くなったのが驚きでした。体を動かすことの大切さ、自分の体を大切にすることはサプリを飲むとかだけではなく、体をきちんと動かしてあげることでもあるなと再確認しました。
今回は10月の終わりということでハロウィーンらしい浮世絵を。


新しい扉を開きながら

詳しいディテールをお話しする状態にはまだ至っていないのですが、本当に色々なことを同時進行しています。それでもなんとか毎日を楽しく穏やかに暮らしています。今までなら遅々として進んでいない事などに焦りを感じたりしていましたが、淡々とできることを粛々と進められていることが進歩だなと思っています。

まとまらないことの突破口

今回は色々な色々なことが少しずつ進み出して面白いところではあるのですが、言葉にできるほどまとまっていなくて「オチ」がないどころではない、某洋とした感じで何も書くか浮かばないまま昨日書き出していたのですが、先ほどXで拝見したこの話がなんというか、セラピストのひよっこになった自分のいま大事だなと思っていることと繋がっている気がしたので、”生きる”に関するセンスについて。

タイのクエイティアオ屋にて

タイに行ったことある人は多いと思うけれど、今はもう日本のラーメンに影響されて随分お出汁に味がついたラーメンとかが主流になっているからちょっと印象が違うかもしれない。
30年ほど前初めて留学して食べた時、日本のように当たり前にスープを啜ったら「味がない」とびっくりした。言葉もあまりできなかったので「タイの人は味のない麺を食べるんだ」と思ったもの。
のちに知ったのは、ベースの味はミニマム、塩味はナンプラーで、唐辛子に砂糖、お酢やライムを絞り自分で自分の好みに味つけて食べるのだよと教えてもらうことになる。
「出されたものに即座に味を加えるのは作った人に失礼だ」なんていう日本的な概念はなく、「みんな自分の好きな味で食べればいい」という感覚がすごく新鮮だった。これは実はwin-winな考え方で、どこでも好きな味が食べられる、まずいから来ないってことは少ない、今考えると合理的なビジネススタイルではないかと思う。
結局私のスタイルは試行錯誤の上、唐辛子とライムを効かせたテイストになった。今ではそんなに辛いものは食べられないけれど、「あなたの味付けはオールドファッションなタイテイストね」と学校の先生の分もその味付けで作って持ってきてと学食にお使いに出されていた。

タイ語の仕事をするようになって、自分の生徒さんを同じようにお店に連れて行くと「自分の好きな味って何かよくわからない」と困りながら味をつけている人が多かった。
日本では出された味を「美味しい=自分に合う」と評価するから、自分の軸に出されたものを合わせるという感覚がないからそうなるのかなぁと思いながら見ていた。
オーダーメイドのお店で仲良しのマダムとおしゃべりをしていると、「日本の人は皆同じ生地で同じデザインのお洋服作って帰るのよね、オーダーだから好きなもの作ったら良いのに」と話していた。

自分らしさを形作るもの

今の社会は情報がたくさん、スマホをひらけば、テレビをつければ、ありとあらゆるところからいろんな情報が飛び込んでくる。自分がこれ良いなぁと思っても、「それ○○じゃない?」とか言われると迷う。誰もしていないスタイルだと不安、テレビで美味しいって言ってたのにそう思えないってどうなの?などなど、気にしないといけないことが多すぎて大変なんだろうなぁと思う。
「周りがどう思うか」「どこから得た情報を採用するか」が選択の基準になってしまった時、それを選んだ事実は「自分らしく」につながるのだろうか。

私としては、その選択はあなたのもの。だけれどちょっとバイアスかかってるかもしれないね、って思う。それよりもまず「自分がかっこいいと思えるか」「自分が美味しいと思えるか」「自分のことを素敵だと思えるか」みたいなことを小さなことから積み重ねていけたら良いんじゃないかと思う。平たくいうと「こだわり」なんだろうけど。みんなこだわりのあるお店は好きなんだから、人のこだわりを味わうことは少し置いておいて、自分のあらゆることにもっと「こだわり」を持ってみても良いんじゃないかなぁと思う。

こだわりって楽しい

自分らしいタイミング、自分らしい服の選び方、片付け方、卵の焼き加減、それぞれに「自分のお気に入り」が発見できていたら、あらゆることが楽しいんじゃないかなぁとも思う。それが全方位あるとそれなりに面倒かもしれない、でも周りに何を言われても大事にしたいって良いんじゃないかしらとも思う。

まぁ、私みたいにある程度年齢重ねると、「自分のこだわり」を超えて大事な人と同じものを共有する幸せなんかも感じたりします。自分の好きはある程度堪能してきたからこそ、大好きな人のこだわりを味わうという幸せを味わったりしています。私のパートナーさんもたまに私のこだわりを共有してくれてます。服の趣味とかね。そうやってお互いの視野を広げている気もします。

セッションをするようになって

 まだひよっこセラピストなので試運転中なんです、でもこのひと月でのべ20人弱の方とお身体のことや気になっていらっしゃることなんかを伺う時間を持たせて頂きました。みなさん自分のこと後回しにして、一生懸命家族や社会のために頑張ってらっしゃるんだなぁと本当にしみじみ痛感しました。
ご自身にとって何が大切か、何がお好きなのかなんて考える余裕もなく、毎日仕事したり、家族をサポートされているの本当に頭が下がる思いで伺いました。
 でもね、それと同時に思ったんです、自分の好きとか、自分を大切にする自分らしさと共存させられないのかな?って。でもその余裕が持てればご自身だけじゃなく、周りとも調和が取れて行く、そう思うのです。
お話聞かせてもらって、分析して調整かけさせてもらうと、みなさん自分にとってのプライオリティを見つけはじめ、クライアントさんがいきいきしはじめるのがとっても嬉しかったりします。まだ始まったばっかりのこの仕事、自分がセッションを受け続けることで「生きやすく」「人生を自分らしく」していけたので、私のセッションを受ける方一人一人が、より心身健康で自分らしく生きていかれるためのお手伝いをしたいと改めて思いました。

私にとっての”生きるに関する”センス

自分を生きやすくする、って自分をスムーズに動かせるってことなのかもしれない。っていうのが今回のnoteを書きながらの結論です。


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