[毎日30分ルーティン]夏仕事とレジスタンス
今日は葛飾北斎の伊勢海老にしてみました。
タイ語では伊勢海老のことを将軍海老、といいます。ショーグンはもう外来語として定着しているということでしょうか。
伊勢海老に生きたまま包丁を入れると、「キュウ」と鳴くんだと教えてもらってから、そんな酷いの嫌だなぁと感じつつ、人間が食べているもの全てそういう酷いことで成り立っているんだと気が付きます。だからこそ大事に丁寧に感謝していただかないと、と心から思うわけです。
ひと月ほどぶりに大阪から戻ってくると、すっかり初夏の空気。木々には若葉が生い茂り、立葵や紫陽花の灌木が蕾をつけ始めているのを目にすると、季節がぐっと動いたなぁと思います。
大阪の行きつけのおさかなやさんで、「鱧」がずらずらと売られているのをみて、あぁ、夏が来た。帰る前には食べないとと思っていたのに、鱧落としもお吸い物も口にしないで帰ってきたのが痛恨の極み。京都の錦市場なんかでは鱧の照り焼きをよく見かけますが、私は子供の頃からもっぱら鱧の落とし(ゆびきしたものですね)とお吸い物で濃厚なお出汁を堪能するのが我が家流。自宅で漬けた梅干しをたたきにして、肉厚の鱧と一緒に口に運んだ時の幸せさといったら。
うちの父は食い道楽と言うか食に対するこだわりが強かったので、九州からの出張の帰りに市場で買ってきた大きな鱧を骨切りまで自分でしたものを食べさせてもらい、冬は身の厚い鰤を刺身や照り焼きでいただいていたおかげでたまらん好きな関西のお味というのがいくつかあります。あ、ふぐもそうですね、ふぐ。ええ具合なものを買ってきて一人でてっちりをして翌日おじやにする時の背徳感にも似た恍惚感を持たせてくれたりします。
先ほどお話しした鱧も関東ではおおよそ口にできないものなので後悔しきり。毎年夏になると、あの濃厚で芳醇な出汁の味を思い出す食いしん坊なのであります。
子供の頃の夏の手仕事といえば、我が家ではせいぜい梅干しと紅生姜をつけることでしたが、メルカリさんの循環型環境生活のおかげで農家さんから無農薬のものを欲しいだけ手に入れることができます。
新生姜や山椒、らっきょうに梅干し。この時期は単純だけれどもウキウキするような作業がたくさん待ち受けています。
梅干しも子供時分は手伝いばっかりで、時分でやる時はおっかなびっくりでしたが、数年経つとなんとなく段取りにも慣れてきてあれやこれやが進みます。
誰かが丹精込めて作ってくださった命をいただいて、手を加えて食卓にあげる。なかなかそういう気持ちになれないぐらい、社会も生活も疲弊し、混濁している気がします。
そんな世界で「自分の食べたものが自分の体を作っている」、ということを実感し、食べるものに意識を向けられる、健康を口にする者から留意できる暮らしができていることは本当に贅沢でありがたいことなのかもしれません。
食べ物が変わることで体が変わり、意識が変わるということを体感する数年間は、経済的な循環社会だけではなく、自分達も循環社会の一部だということを改めて気づき考えさせられます。その流れを止めることなく、満足度の高い、自らの考える豊かな暮らしを模索する毎日は変化の連続であり、発見の連続でもあります。
TwitterやFacebookを目にすると、そのような仲間が加速度的に増えていることを肌で感じます。この流れは不可逆的で社会のあり方の閾値を超えた潮流になりつつあるのであれば、数年後には大本営発表とはまた違う「ニューノーマル」「人間としての原点回帰」が見受けられるのかもしれません。
食べるものを変えることで意識が変わります。自分が変わり、世界が変わるのではないか、私にとって夏の手仕事は、社会へのレジスタンスの一環でもあるのかもしれません。(ちょっと過激ですかしらね、ふふ)
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25分
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