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インナーチャイルド療法を終えて


勧められたインナーチャイルド療法を受けた。心の中には何歳にもなれるじぶんがいた。その部屋の興味がじぶんにだけ注がれたことにその子は安心して泣いていた。その子を可愛がるように残りの人生を過ごしていきたいと思った。

病院の帰りに原宿に寄ってラフォーレの二階でアボカドたっぷりのブリトーを食べた。窓ぎわのベンチから大通りを行き交う人々を眺めながらこの人たちの心の中にもきっとインナーチャイルドがいるんだと思った。体はおとなサイズだけど心はきっと子どもサイズのまま。

可愛がられた記憶が薄ければ可愛がり方なんてわかんないよね。遊んで貰った記憶が薄ければ遊び方もわかんないよ。自分を労わるおとなの見本がいなければ自分を大切にする術もわかんない。なにもないとこから自分なりのやり方を見出したあなたはえらい。

かわいくするのもお勉強するのもインナーチャイルドに絆創膏を貼ることだから自分のためだけにつづけたい。存在より言動を褒められて育ったから褒められる何かを失ってはいけないと思っていた。褒められる言動がじぶんの価値でそれを失ったらわたしは人として価値がなくなると思い込んでしまうというまぁよくある話。

だけどほんのり見えてきたのは言動にまるじゃなく存在にまるをあげること。まだ上手じゃないけど。焦ってつまづいて転んでもそんなところもかわいいねのんびり行こうって言える日々がいい。ほんとに辛い日は生きようとしなくてもいい、ただ息をしているだけでいいのだと思う。

ひとりひとりの気分の集合体がセカイの空気を作っていると思うから自分を大切にするだけで十分セカイの一端を担っていると思う。自分の軸はカチカチに揺れないことじゃなくて揺れても戻ってこられることだと思う。右往左往することのできるぐにゃぐにゃな感じ。これはわたしの感覚。

心の中にモヤモヤがある時ほどやりたくなることは涙の代わりなんだと思った。夜にドライブしたくなるのも耳にチーズが入ったほかほかのピッツァが食べたくなるのもかわいく生きたいのも涙の代わりなんだと思った。

俯瞰で見たらにんげんは弱くて泥だらけでどうしようもない可愛さを持っているのだと思う。個人的に誰に対しても加工前の方が可愛いと思うけどじぶんの好きな顔もじぶんのありのままもじぶんで決める世界だもんね。

ときどきわたしはありのままでいられない心の痛みを学ぶために生まれた(堕ちた)ように思えてくる。それだけじゃないけどね。ありのままでいられない心のどの部分がどう痛むのか学ぶことがありのままで生きる歓びと同じくらいもしくはそれ以上に大事だったのだと思う。

飢えてる時は刺激を求めがちだけどほんとうに欲しいのは安心感だと気づく。恋愛じゃなくてお洋服の話。お洋服じゃなくて恋愛の話(どっち)。
恋愛とお洋服の話(ふむ)。

理想の恋人像を聞かれたらいつも理想の父親像を答えていた。だから夫とはずっと親子みたいな関係がいい。以前は自分を蔑むような人にも自分がどう生きてきたどんな人間なのか理解してほしかった。だけど今は分かってくれる人だけ分かってくれればいいと思う。

わたしたちはずっと戦ってきた。誰からも貰えなかったものを自分で自分に与えるために時に偽って時にまやかしに縋ってばかだなぁ何やってるんだろうと分かっていながらやめられなくてなりたくもないのに道化師になって淋しくて淋しくて淋しいのにもう何が淋しいのかもよくわかんない埋まらない穴を埋めようとずっと戦ってきた。

もう戦わなくていいよ。長い長い自己否定の先にほんのり見えてきたものがある。それは自信や自己肯定感とはまた違った。博愛や慈愛ともまた違った。ただ自分を可愛がると言う表現がしっくりきた。それは具体的に、誰かがじぶんにしてきた視点とはまた違う視点を自分にあげること。

誰かがわたしをネガティブな感情に囚われる弱い人間だと見てもわたしはわたしをネガティブな感情にも耳を傾ける自分の心に誠実な人だと見たり誰かがわたしをただの病んでる人だと見てもわたしはわたしを一つ一つのことに魂を込めて戦ってきたから余韻に苦しむ人なのだと見たり。

たっぷり泣いて体の中の水分を放出したらお腹が空いてきておいしいもの食べておいしいねって言ったりどんな風に大切にされたいか問いかけたりまた話そうねって言ったりまた遊ぼうねって言ったりそんな時間がこれからいっぱいインナーチャイルドたちに訪れたらいいな。



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