多分勝手に誰かの何かを背負って生きている

今日は新宿でお勉強。

東新宿からストライカーまで歩いてきて、街の景色に感じ入るところあり。10年前は時々関東に帰ってきて、あっちこっち行っていたけど、ここに来ることは、あまり無かったなと思い至る。あまり来たいと言う気もなかったのだろう。

会場は東京医科大学病院の直ぐ近くだ。綺麗な建物、アーバンな街並み。ハワイ大学時代にお世話になった先生は、こんなところで診療していたのだなぁと今更ながら実感が湧き、都会のど真ん中でFUOをやるって、そりゃ大変だなと勝手に認識。ここにはきっと手垢塗れの精査済みの症例しか来ないのだろうから、何処から掘り下げていくか、なかなか悩ましいところであろう。

そんな横断的診療医の見方を他所に、心は違うものを思い浮かべる。ここではないと分かっていても、ここで学業を仕上げて医の道に進むはずだった人のことを思い出して、切なくなる。

僕が医学部に進学する前の話。それこそ10年以上前の話だ。知り合いが若くして急逝した。その両親の悲しみたるや、僕には想像もできなければ、今でも理解はできない。しばらく顔を見ていなかった中で、突然入った不幸の知らせに、18歳だった僕はどうしたらいいのかわからなかった。どうしたらも何も、何もできないのだと気付くまで、それなりの時間を要したのだが、その時には、何かせねばならんことを見落としていると言う気持ちになった。

何かを託された訳でもないし、誰かに言われた訳でもないが、医学部に進んだ時には、何処か後ろめたさがあったのかも知れない。若くして亡くなった医学生、彼が貢献するはずだった患者さん達の数を思った時に、少しでも自分が代わりをできたらと言う気持ちは、まぁ、今思えば傲慢だなとも思うけれども、あったと思う。一方、自分には医学研究と言う目標があって、それ故に臨床医として貢献する割合は低いと決めてかかっていたところがあったので、それが後ろめたいと思わせたように思う。ぐるっと回って臨床だけやっている僕を、彼は何と言うかよくわからないが、大きく間違っているとは言われないように思う。

札幌に帰って早期、若い大学生の感染を契機とした急逝心不全の症例がいたことを覚えている。一人暮らし、両親は遠方、死なせるわけにはいかない。その時、少し彼のことを思い出しそうな自分がいて、一度心が乱れた。自分達で治療を 完遂したいと言う気持ちを押し殺して、Cardiac ECMO症例として大学に転院を依頼、快く取ってもらったのを覚えている。

繰り返すようだが、誰かに言われた訳でもなければ何かを託された訳でもない。ただ、生きて医者をしている自分が、恥ずかしくない生き方をしているだろうかと、時々考えて振り返る。

少なくとも恥じるような生き方はしていない。ただ誇れるような立派な道程でもない。齢31歳、間もなく32歳。業績はさておき、良い臨床医でありたい、なりたいと思う。

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