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蚕の森

僕が小学生だった頃、僕の家の近くでは養蚕を行なっていた。

テニスコート2面分ほどの広さの建物に、たくさんの箱で仕切られた蚕の部屋があり、桑の葉が敷き詰められていた。

その部屋に入ると、シーンとした厳粛な空気の中で、蚕が葉を食べるサワサワという音だけが聞こえた。
それは心地よい音で、雨の日の休日を連想させた。

その音を聞くとなぜか神聖な気持ちになるのが不思議だった。


父の知り合いだったその養蚕所のおじさんに頼んで、蚕を触らせてもらうのが好きだった。
掌に載せると、吸盤のような脚で手に吸い付き、逆さにしても落ちることはない。

ひんやりと冷たい感触と、さらさらとした肌触りは、何回触っても心地よかったのを覚えている。
背中にある勾玉のような模様と、お尻からぴょこんと突き出した角も愛らしかった。


ある日、そのおじさんから繭をひとつもらった。
幼虫が吐いた糸からできたその繭は、温かな肌触りで、幼虫の体表とはまた違った心地よさがあった。

僕は、自分のお宝箱に入れて、飽きもせずに眺めていた。
だが、学校から帰ったある日、お宝箱のフタを開けるといつもと様子が違っていた。


繭の先っちょに穴が開き、真っ白な蛾がそこにとまっていたのだ。
さなぎが羽化したのだ!

真っ白な翅と胴体に対して、真っ黒な触角と眼。
でっぷりとした体と、それを支え切れない6本の脚。

神聖でいて、なおかつ愛嬌のある外観…。
ひと目で好きになってしまった。


さっそく養蚕所のおじさんに羽化したことを報告し、エサは何をあげればいいのかを聞いてみた。

すると、おじさんはちょっと困ったような顔をして、
「成虫はエサを食べられないんだよ。口が退化しているからね」
と言うのだった。

僕は驚いて、
「でも、エサを食べなかったら死んじゃうよね」
と聞くと、おじさんはさらに困った顔になってしまった。


父が説明してくれたところによると、蚕は人間が絹を採るために手を加えて作り出した家畜だということだった。

幼虫はおとなしく、逃げ出すことはない。
成虫は翅が退化していて、飛ぶことさえできない。

人間が世話をすることによって、はじめて生きていける虫なのだと…。
その代わり、人間は繭からさなぎを取り出して、繭を煮出して絹にするのだと…。


結局、羽化した僕のカイコガはエサを食べることもなく、飛び立つこともなく、1週間ほどで死んでしまった。

本来、人間との契約の中では、蚕のさなぎが蛾に羽化することはない。
僕がもらってきたおかげで初めて成虫になることができたのだが、なんだかそれが余計なお世話になってしまった気がして心が痛んだ。


一般的に家畜と呼ばれる鶏や豚、牛よりもよっぽど小さな生物が、人間のためにその生命を犠牲にしている。

その小ささゆえに、何だかいたたまれない気持ちになったのを僕は今でも覚えている。


不条理という気持ちを初めて味わった僕の夏が、その時終わった。


カイコ
チョウ目カイコガ科に属する昆虫の一種。
家蚕(かさん)とも呼ばれる家畜化された昆虫で、野生動物としては生息しない。また野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、餌がなくなっても自ら探したり逃げ出したりすることがなく、人間による管理なしでは生きることができない
-Wikipedia



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