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梅鮭おむすび


2020年7月25日、祖母が亡くなった。
病院に駆けつけた時にはもう、息を引き取っていた。
19時2分、ご臨終。老衰と心筋梗塞からくる衰弱死だった。
享年90歳。企てていた卒寿の祝いをできぬまま逝ってしまった。

祖母は1930年に朝鮮半島に生まれ、戦時中に日本に渡ってきたいわゆる在日一世だ。早くに夫、僕の祖父に当たる人を亡くし、女手一つで兄弟四人を育て上げた立派な人だった。

70代で引退するまでは、兵庫県尼崎市で焼肉屋を営んでいた。「焼肉大番」。ガスで焼く昔ながらのスタイルで、韓国風の下味をたっぷりつけた焼肉はファンが多く、狭い店内ながら遊びに行った時にはお客さんでよく埋まっていた。個人的にも、ひいき目一切なく、今まで食べた焼肉の中で一番美味しいと断言できる。妹も言ってるくらいだ。

そんな祖母との思い出は、食べ物にまつわるものが多い。

高校生のころ、所属していたラグビー部の試合が祖母の家の近くであるということで、前泊したことがあった。当日、祖母が焼肉弁当を持たせてくれて会場で食べたのだけど、山盛りの焼肉と、大きなおむすびが4つも入っていた。海苔で巻かれたおむすびを一口噛んでみると、中から梅と鮭が出てきた。「ハンメ(韓国語でおばあちゃんの意)、具は1種類ずつにしてくれよ〜」と口に含んだまま笑った。残りのおむすびの具もすべて梅鮭だった。どんな味か想像できるだろうか。梅と鮭がまったく調和せず、それぞれの味が等しく主張してくる味だと言えばわかりやすいだろう。美味しいとか美味しくないとか、そういう野暮なことはどうでもいい。祖母の愛が感じられる味だった。20年近く経った今でもその味を覚えている。このまま一生忘れないだろう。もうひとつ笑わされたのが、そんなのどこで売ってるんだという蛇腹式の伸縮可能な水筒だった。浮き輪の空気入れが長細くなったような見た目で、そもそも用途は水筒であっているのもわからなかった。飲み終えたあとに蛇腹をたたんで、すごくコンパクトになった姿をよく覚えている。

祖母の口癖は「おーにゃ」だった。おーにゃとは、韓国語の返事のひとつで、老人が若い子に向けてする「どういたしまして」というニュアンスの言葉だ。ハンメありがとうとか、ハンメごちそうさまと挨拶する孫たちに対して、祖母はよく「おーにゃ、おーにゃ」と笑った。

二つ目の思い出は、僕が社会人になってからのこと。祖母は焼肉屋を引退して隠居生活を送っていた。ちなみに先ほどから語っている「祖母」とは、母方の祖母のことを指す。母は四人兄弟の上から二番目で、次女である。下に二人の弟がいる。母以外の姉弟はみんな尼崎に住んでいるが、祖母は一人で暮らしていた。伯母やヘルパーさんが日々様子を見にくるものの、基本的には独居老人であったから、寂しい思いをしていたのだと思う。年に一度は、お盆や正月とは別に一人で祖母の家に顔を出すようにしていた。そんなときには、祖母の長い話を聞いたり、仕事の近況を話したり、壊れたラジオを修理したり、好きだった都はるみのカセットテープを買いに商店街までデートしたりしていた。そして家のすぐ近くにあるお寿司屋さんでうな重を三回ほど食べに行ったことがある。祖母は小柄で少食だったから、毎回ふたりでうな重と茶碗蒸しを半分こした。行くたびに祖母は、お店の大将に「孫がご馳走してくれてねえ」と嬉しそうに話した。大将はいつも優しい笑顔で「それはそれは、いいお孫さんですねえ」と返してくれた。祖母の「もうお腹いっぱい〜」と満足そうにする表情に、自分もどれほど満たされたことだろう。そして帰り道はいつも恋人のように腕を組んで歩いて、駅まで僕を見送ってくれた。「けいちゃん(僕)といるときがいちばん幸せやあ」と本当に嬉しそうに言って僕を電車の中で泣かせた。

いま思えば、祖母から戦争の話を聞いたことはなかった。物語とかで、主人公が祖父母から戦争の話を聞くようなエピソードはよく目にするが、そういうのは一度もなかった。そんなことよりも、生活を送る上での身の衰えをよく聞かされた。戦争体験者の話は、体験者の胸の内にしまっておいた方がいいこともあるのかも知れない。

三つ目の思い出は、いまから3年ほど前のこと。祖母は、独居生活を送るようになってから会うたびに小さくなっていた。それでも僕が訪ねると、無い力を振りしぼり、昔のようにもてなそうとしてくれる。祖母は最終的に老人ホームに入居するまで、可能な限り自炊していたから、比較的まだ元気だったころはいろんな手料理を食べさせてくれたのだけど、最後の方は動くのも大変そうだった。そんな祖母を制して、お土産に買ってきた桃の皮をむいて食べさせたことがあった。切った桃をアーンしてあげると、少女のように喜んで「けいちゃんありがとう」と笑うのだ。僕はその笑顔を見て、涙があふれて仕方がなかった。どうにも祖母のことになると涙腺がゆるんだ。祖母に背を向けて、気づかれないように涙を拭うことに必死だった。ひと段落して祖母と話をしていると、引出しからおもむろに「西国三十三霊場納経帳」を取り出した。祖母は生前、お寺巡りが好きで、関西一円の霊場を巡り、納経帳にご朱印をいただくのが趣味のひとつだった。その話は何度か聞いていたので、あらたまってどうしたのかと思っていると、この大事な納経帳を形見としてくれると言う。形見というものを親族からもらったことがなかった僕は、少し驚くのと同時に、とても嬉しい気持ちになった。祖母から譲り受けたこ納経帳は今でも祖母とのツーショット写真と一緒に棚に飾ってある。いくつかお参りしそびれたお寺があると言っていたから、引き継ごう。すべて巡礼して報告しよう。もっと早くに行って喜ばせたかったと今さら後悔してる。

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最後の思い出。話は前後するけれど、中学生のころ、お盆休みに数日、祖母の家で過ごして、帰る夜のこと。帰る前に、当時まだ現役だった祖母が焼肉を振舞ってくれた(祖母の実家は1階が焼肉屋、2・3階が住居となっていた。焼肉屋を引退してからの独居生活は、実家を借家にして別のアパートで暮らしていた)。食卓を囲う中で、祖母の食がいつもより細いことが気になり、「ハンメ今日は食欲なさそうやね。大丈夫?」と声をかけた。何が琴線に触れたのかはよくわからないが、祖母はこの言葉にたいそう喜んで、「大丈夫だよ〜、けいちゃん心配ありがとうねえ」と返事をした。そろそろ帰る時間となり、車に乗り込んだ僕たちを祖母と叔父が見送ってくれた。当時、叔父と祖母は同居していたので、二人が笑顔で見送ってくれるのはいつもの光景だったけれど、その日はすこし様子が違った。いつも気丈な祖母が、そのときはとても寂しそうな表情をしていた。もしかすると、食事中に心配してかけた言葉が嬉しくて、そして別れを悲しくさせたのかも知れない。車が発進したあと、後部座席の窓からいつまでも車を見送る二人の方を振り返ると、祖母は叔父に寄りかかって泣いていた。ふだん荒々しい性格の叔父も、そのときは優しく祖母の肩を抱いていた。その姿は、僕の目にも涙を運んできた。後部座席で、同乗する家族に悟られぬよう、窓を開けて夜風に当たりながらあふれる涙が乾くのを待った。感涙など縁がなかった思春期の、唯一の涙だったように思える。

思い出すがままに思い出を書いた。こうしてみると、僕にとっては食べ物と涙の記憶だ。愛くるしい祖母との優しい思い出は、生涯忘れることはないだろう。ハンメ、今までありがとう。大好きでした。どうか安らかにお眠りください。

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