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「アシガール」に学ぶ、足が速い個体は戦国時代で頑張ると良い。

社会人になって10数年が経った。

さまざまな理不尽なことにブーブーと文句を言うことも少なくなり、年を重ねることは寛容になることだなぁと思うようになったが、先日友人と話しをしている際に「それって、ただ感性が鈍くなっているだけなんじゃないの?」という指摘を受けた。

確かに過去熱中していたコンテンツに興味を失うことも多くなったし、以前ほど「エモいなぁー!」と思うことは少なくなった。経験と共に寛容を得て感動を失うなんて皮肉なものである。


そんな私でも継続して興味を持っているコンテンツがある。マンガだ。

それは父親が渡してくれたドラえもんから始まり、今ではアプリ・Kindleを用いた電子書籍に形態を変えても、日々マンガを読む習慣は続いている。ひょっとしたら、あの日のドラえもんからマンガを1秒も読まなかった日は無いかもしれない。我ながらヤバい奴である。


2020年の年末、嫁さんの友達家族とオンライン交流をしている際に、ふとマンガの話しになった。嫁さんの友達が大のマンガファンだったのだ。私は話したいなぁ…話したいなぁ…というモンスターのような欲求を抑えつつ、無難に会話に参加していた。年齢を重ねると、壁に意味ありげなメッセージを記してDr.テンマを困惑させなくても済むのである。

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(意味ありげなメッセージ:『MONSTER』 より引用 浦沢直樹著)

しかしそんな努力も、早々に水泡に帰することになる。話題がオススメの少女マンガに移ったのだ。


私は少女マンガが大好きだ。少年時代には『ジャンプ』より先に『りぼん』を読んでいたし、『ドラゴンボール』の悟空vsフリーザ戦の結末よりも、『ママレード・ボーイ』の銀太と亜梨実は付き合うことになるかといったことについて、同級生と話したかった。結局その夢は叶わなかった。男性は少年マンガを、女性は少女マンガを読むもの、といった構図は思ったよりも根深い。


少女マンガは世代と共に表現の対象が移り変わっているため、その定義を明確に定めることは難しい。個人的には、藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』にある、少女マンガの共通項が興味深く、これを定義としても差し障りないと考えている。

これまでに折りにふれ、様々なかたちで指摘してきたことだが、少女マンガの根底に流れているのは、「私の居場所はどこにあるの?」という問い、誰かにそのままの自分を受け入れてほしいという願いである。

藤本由香里 『私の居場所はどこにあるの?』(学陽書房)

誰かに自分の存在を認めてもらいたい。それは、なんの取り柄もない平凡な主人公であっても、複雑な家庭環境や女性軽視の職場においても変わらない。ありのままの自分を受け入れてもらうまでのプロセスと、それに至るまでの感情の揺らぎを共感することが、少女マンガの醍醐味といえる。

著書では「男性よりも女性の方が選別の目にさらされ続けている」ので、上記の様なテーマ性が少女マンガに強く反映されていると結論づけているが、承認欲求は何も女性特有の感情ではない。すなわち、男性である私が読んでいたって何もおかしくないのである。(自己正当化)


しかし多くの男性は積極的に少女マンガを読まない。理由を聞くと、少年マンガに比べて絵がヘタとか、コマがスカスカとか、ボーイフレンドの腕が唐突にゴムゴムの実の能力者みたいになって意味不明、などと好き勝手なことを言われる。

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(能力者となったBF:『ザクロの実を暴いて』より引用 新條まゆ著)

確かにルフィみたいだなとは思うが、いわれのない誹謗中傷に、頭がフットーしそうである(『げっちゅー』より引用 すぎ恵美子)。少女マンガは、主人公が自分の居場所を見つけるまでのプロセスを楽しむことが醍醐味であり、唐突に悪魔の実の能力者となるボーイフレンドは添え物にすぎない。

例えばあなたがラーメンと餃子を外食したとして、ラーメンとルフィの腕のように長い餃子が提供されたとしても、ラーメンが美味しければあなたは満足するはずだ。仮に「あの店の餃子、ルフィみたいじゃない?」と言ってくる同僚がいても「でもラーメン美味いからいいじゃん、というかキミ何言ってんの?」と言い返してしまえば良いのである。

というか、私何書いてるの?


「アシガールは時代考証が割とちゃんとしている」

本題に入る前に2,000字近く書いてしまった。話しを嫁さんの友達家族との会話に戻したいと思う。

はじめは鬼滅の刃や呪術廻戦、キングダムと差し障りのない接待マンガトークに相槌を打っていたのだが、ひょんなことから少女マンガの話しになった。実は自分も少女マンガファンであることを恐る恐る公言すると、すんなりと受け入れてもらえた。こんな時、オトナな対応は大変ありがたい。

ひとしきり吉住渉トークで盛り上がった後に、「最近なに読んでますか?」と伺い教えてもらったのが『アシガール』であった。

足は速いが授業にも部活にもやる気を出せない女子高生「速川唯」が、天才的頭脳を持つ弟・尊の実験室でうっかり懐剣(タイムマシン起動スイッチ)を抜いたところ、敗走中の足軽隊に紛れ込んでしまう。時は永禄2年(1559年)、戦国時代であった。(中略)途中で出会い一目ぼれした若君様・羽木九八郎忠清にもう一度会おうと黒羽城へ赴く。

アシガール Wikipediaより引用

作者は『ごくせん』でおなじみの森本梢子先生。NHKでドラマ化もされていたが、私は全く知らなかった。(ちなみにマンガを読む前に下記ドラマのPVを見たが、編集がエグいほどショボく1ミリも興味が持てなかった。本編は面白いのだろうか…)


「どんな感じのマンガなんですか?」と聞いたところ、「う〜ん…なんか時代考証が割とちゃんとしている気がする」と言われた。ものすごく自信なさげである。

ただ私も含め、良いと思っているコンテンツであっても、流暢にその良い点を言語化できる人は少ないと思う。面白いものは「面白い」、美味いものは「美味い」、ルフィみたいな餃子は「キモイ」といえば、大抵のことは済んでしまう。なので、特にツッコミもせずに「へぇ〜今度読んでみます!」と返答し、その場を終えた。


足軽vs女子高生

2021年。コロナ禍で例年とは異なる年始に、私は『アシガール』既刊15巻を読破した。多分2日間くらいだったと思う。

作中に登場するタイムマシンや秘剣でんでん丸(日本刀型スタンガン)などの発明品がご都合主義すぎやしませんかと、少し添え物餃子パートが気になりもしたが、全体的には楽しめた。特に主人公・唯の一目惚れ相手である忠清が、永禄から現代に逆にタイムスリップしてくる展開には、感心してしまった。

また『アシガール』はラブコメとしてだけではなく、足軽として徐々に出世していくサクセスストーリーとしても、楽しむことが出来る。


タイムスリップ先である室町時代(永禄2年:1559年)では、農民が足軽として登用されていた。本郷和人『軍事の日本史』では次のように述べられている。

南北朝時代になると、今度はいかに多くの兵を集めるかということに重きが置かれるようになります。いわば「戦いの素人」が大勢集められて戦場に連れて行かれるようになるのです。(中略)足軽が出てくるのは室町時代になってからです。このころから総力戦が始まります。「数は力なり」。本当の意味で数が物を言う時代の幕開けです。

本郷和人 『軍事の日本史』(朝日新書)

忠清の近くにいたい一心で、唯は性別を偽り、小荷駄隊(兵糧や弾薬などの物資を運ぶ係)から御馬番役、警固番役と徐々に出世していく。戦の数合わせでしか無い女子高生足軽のサクセスストーリー

ただし、出世の仕方がだいぶエキセントリックで、現代サラリーマンには参考にならない。具体的には、足の速さだけで成り上がっているのである。例えば、小荷駄隊から御馬番役に昇進するきっかけは、「天下一足が速い」と噂の悪丸と「かけくらべ(徒競走)」に圧勝したことであった。

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(悪丸:『アシガール』より引用 森本梢子著)

上記画像の男性が悪丸だ。生粋の黒人スプリンターの風貌。え、コイツに勝てる可能性ある?


馬という屋外での長距離移動を持っている武士とは異なり、足軽かつ農民である彼らは、徒歩以外に移動手段を持っておらず、足腰が強そうだなと容易に想像することができる。

また足軽は足半(あしなか)という普通の草鞋の半分の長さしか無い履物を着用しており、これによって後方蹴り出しにより推進力を得る洋式歩行(現代人の歩行)に近い歩行技術を実現していると考察する文献もある(『日本人の歩き方』 山根一郎著 椙山人間学研究所 2, 47-51, 2007)。

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(足半の武士:『春日権現験記絵』より引用 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧可)

基礎体力の違いに加え、歩行技術も同様の時点で、女子高生が足軽に勝てるビジョンが全く見当たらないが、ちょっと待ってほしい。『アシガール』は割と時代考証がちゃんとしている気がするので、何か見落としている視点があるはずだ。

例えば、現代人と室町時代の人の体格差などから勝機が見出せるかもしれない。日本人は古墳時代から近現代に至るにつれて、平均身長が小さくなっている。

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(『繩文時代から現代に至る関東地方人身長の時代的変化』より引用 平本嘉助著 人類誌 80(3):221-236, 1972)

上記は発掘された縄文時代から江戸時代の大腿骨長より、各時代の身長を推定している研究報告である。男女ともに古墳時代から身長が低くなり続けている事が分かる。


厚生労働省の報告によると(令和元年国民健康・栄養調査報告)、令和元年の20歳男性における平均身長は170.2cmであったが、室町時代における男性の平均身長は156.8cmと、約14cmほど低い。

悪丸とかけくらべをした唯は16歳、令和元年の16歳女子における平均身長は158.0cmであるこの結果、足軽よりも女子高生の身長が高いこととなった。身長が高くなればストライドが増加し、疾走速度が向上する。唯が陸上部で日々走行技術を磨いていたことも考慮すれば、かけくらべに勝てる可能性は十分に考えられる。

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(唯と悪丸:『アシガール』より引用 森本梢子著)

まぁ悪丸は唯より圧倒的に身長が高い気もするが、きっと思い過ごしであろう。アレだよ、アレ。遠近法だよ。


戦社会の相対性理論

うっかり『アシガール』の時代考証の素晴らしさばかりを語ってしまったが、ここで少し学びを共有したい。

既刊15巻の段階ではあるが、唯と忠清はお互いのパートナーとなり、自分の居場所を見つけることが出来た。ただ、一つ疑問が残る。忠清が唯をパートナーに選んだ理由である。


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(忠清:『アシガール』より引用 森本梢子著)

忠清は黒羽城城主の嫡男で、ご覧のとおり眉目秀麗、平たく言うとイケメンである。加えて、3倍の兵力相手の戦であっても、率先して前線に出ることで自軍を鼓舞する胆力も持ち合わせている。

一夫多妻制の室町時代において、正室どころか側室も選びたい放題である忠清が、なぜ唯をパートナーに選んだのか?答えは戦社会の相対性理論に基づくかもしれない。


ウィリアム・フォン・ヒッペル著の『われわれはなぜ嘘つきで自意識過剰でお人好しなのか』では、人間は他者と比べた相対的な地位を重要視する生き物であり、その原動力が性淘汰にあると説明している。

性淘汰と配偶競争は、「相対性」の力 -他者と比べた相対的な地位が大切であること- の裏にある原動力である。(中略)より大きな意味を持つのは、集団の他の関連するメンバーとの比較の方だ。そのため、人々はつねに社会的比較を行う。

ウィリアム・フォン・ヒッペル『われわれはなぜ嘘つきで自意識過剰でお人好しなのか』(ハーパーコリンズ・ジャパン)

性淘汰とは、進化論の父であるチャールズ・ダーウィン(1809〜1882年)が提唱した概念で、「異性を引きつける能力を高めるというプロセスをとおして起きる進化」のことを表している。ヒトは生殖の成功を高める活動を愉しみ、低める活動を嫌うように進化した。

砂時計のような体型の女性、逆三角形の体型の男性を魅力的に感じる理由をあれこれ考える必要などない。ほとんどの人がそのような好みを持っているのは、たんに進化の結果なのだ。

ウィリアム・フォン・ヒッペル『われわれはなぜ嘘つきで自意識過剰でお人好しなのか』(ハーパーコリンズ・ジャパン)

砂時計型の女性は子を生む能力を、逆三角形体型の男性は栄養状態が良く健康であること表す信号である。生き残る能力が高い特徴を持つ個体は、生殖相手として好まれる。そうでなければ、ヒトという種が生態系の頂点に達することは出来なかった筈だ。

唯の体型は砂時計型とはほど遠く、性淘汰を基とする相対性理論の考えからはパートナーとして選ばれにくい個体である。しかしながら、これはあくまで現代社会における相対性理論から考えた場合である。忘れてはならない。ここは現代ではない、室町時代なのだ。


室町時代は戦のプロフェッショナルである武士だけではなく、農民が足軽となり、数合わせとして戦に参加していた時代だ。畑から殺し合いの場に行けと言われたとき、「よし、出世のためにバンバン殺してやろう」と思う人は稀だろう。余談だが、こうした彼らの気持ちから生まれた武器が槍だ。

南北時代から室町時代にかけて槍という武器が生まれ、大勢に槍をもたせて一方向に突撃させるという戦法がとられるようになりました。槍なら遠くから相手を突けばいいわけです。(中略)または長い槍でもって敵の頭の上からバンバン叩く。そうやって恐怖心を少しでも取り払って兵隊として機能させたのです。

本郷和人 『軍事の日本史』(朝日新書)

自分が命のやり取りをしている実感を与えない。自分が死ぬなんてことは考えさせない。当たり前であるが、多くの室町時代の人だって死にたくはないのである。


このような戦社会の背景を基に考えると、足がバカみたいに速いという特徴は、非常に魅力的に思える。天下一足が速い悪丸にも圧勝する唯の脚力があれば、追撃戦から逃れる事もでき、生存確率は上がるであろう。残す遺伝子としては申し分ない。

加えて忠清のまわりにいる女性は、皆大人しい。例えば、唯と間違えられ城に招かれた鐘ヶ江の娘・ふきは、忠清から声が掛かるのをいつまでも待ちながら、手紙を送りまくることしかしない。

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(手紙を送るふき:『アシガール』より引用 森本梢子著)

生き残るのに必要な遺伝子を全く感じない。こういった集団の中にいる唯のような稀有な存在は、忠清の目にもより魅力的に見えたはずだ。性淘汰の影響を色濃く受けるヒトという生き物は、すべての事柄は相対的に判断する。


まとめ

唯は忠清というパートナーを得ることで、室町時代に自分の居場所を見つけることが出来た。これは唯の真っ直ぐな性格と行動が、忠清の気持ちを惹きつけたということに疑いはない。

加えて、室町時代や戦国時代のように、生き死にが身近な時代において、生存に優位かつ稀有な特徴は、現代よりも魅力的に感じられる可能性が高い。

足の速さに自身のある方は、ぜひ戦国時代で頑張ってもらいたい。現代よりも、きっと自分の居場所が見つかりやすいと思う。目安としては、馬と並走できるくらい足が速いことが望ましい。

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(馬と並走する唯:『アシガール』より引用 森本梢子著)

それでは。

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