私たちの「現実」と「仮想」の境界:バーチャリズムという思想によせて

私は度々の思索の中で、「バーチャルな世界」が人にもたらす可能性について考察してきました。
それはバーチャル世界の自由さが、自己表現の幅を大きく広げ、「もう一人の自分」=仮想的(バーチャル)な人格としての活動を可能とすることで、自らのデザインした自己像(仮想的アイデンティティ)を通して振る舞い、それによって人類史上最大の自由な自己実現の可能性が生まれる、という点に集約されます。

その事を述べたのが、全3編に渡って執筆した「全てがVになる」シリーズでした。


さて、ここで今回記事を書くきっかけとなった「バーチャリズム」という思想について触れたいと思います。
これはのらくら氏が提唱している「思想」です。私と同じくバーチャルな存在について注目した思索であり、また嬉しいことに私の一連の記事にも刺激を受けていただいたものであるようです。

氏の主張については、下記の記事に詳しく書かれているのですが、長文であるため失礼ながら一部抜粋しながら要約すると、

バーチャリズム/ヴァーチャリズム(Virtualism)という思想である。一言で言えば「バーチャル至上主義」である。
バーチャル世界でバーチャル存在として振る舞う全ての人)を見る時に、現実というものを、一切、全く完全に、想定しない。(中略)そこにいる「その人」をただ「そのまま」見るという思想である。
言い換えれば、「現実とは違う「バーチャル世界」において異なる振る舞いをしているキャラクター(人格)」そのものの現実を前提としない独立を主張する思想である。

氏の主張で特徴的なのは、バーチャルという存在を認識する上で現実世界の存在を意識から排除し、純粋にバーチャルな人格そのものを見ようという点だと思います。
いわく、その出発点は「中の人」などというものにとらわれずにVTuberを楽しもう、というインターネットのあちこちでも聞かれる素朴な思いを原点としているのだそうですが、それを思想として体系化しようという試みは非常にユニークで、エネルギーにあふれていると感じます。


ただ、結論から言えば私はこの思想は自らの考えと重なる部分もある一方で、不足している点、批判すべき点もまた多いと感じました。
そのため筆を執り、自らの考えと対照しつつ、私のバーチャルな人格論と、のらくら氏のバーチャリズムの差異について思索を深めていきたいと思います。



◆仮想(バーチャル)は「事実」か?

さて、その前に私たちが折につけて触れている仮想(バーチャル)という言葉は一体どういうものであるか、ということをいま一度問いたいと思います。
Virtualとは原義的には実質的な、という意味を持ちます。例えばVR、バーチャルリアリティとは、現実そのものではないが、実質的に現実と同じもの、ということを表します。あるいは私のいう「バーチャルな存在」とは、現実に…あるいは物理世界に存在しているわけではないが、実質的に現実に存在しているもの、という意味合いを持ちます。

1. almost or very nearly the thing described, so that any slight difference is not important
2. made to appear to exist by the use of computer software, for example on the Internet

こう「バーチャル」という言葉と対比してみると、我々が何気なく使っている「現実」という言葉には、その意味合いにある程度広がりがあることに気づかされます。
今回この「現実」を、私は4つのレイヤーに分解してお話したいと思います。すなわち「物理的現実」「客観的現実」「共同主観的現実」そして「主観的現実」です。

例えば、とある人物が立てたモニュメントが、不幸にも火事で焼失してしまったとしましょう。
この時、それぞれの現実は少しずつの差異をはらみます。

物理的現実としては、それはモニュメントと酸素の化学反応による燃焼と変質と表現できるでしょう。
しかし客観的現実としては、それは火災によりモニュメントが失われたと捉えられます。ただの化学反応による変質に、「喪失」という意味合いが観測者である人間によって付与されます。

そして、例えばこのモニュメントを大事な仲間の遺作として大切にしていた集団がいたとしましょう。彼らにとって、それは単なるモニュメントという物質的な存在の喪失以上の意味合いを持ちます。それは彼らのうちで共有されるがゆえに、紛れもない「現実」となります。これが共同主観的現実です。
さらにその集団の中で、そのモニュメントの作者の配偶者がいて、その人はモニュメントの製作にあたっては共に多くの苦労を重ねたとしましょう。彼もしくは彼女にとって、それは大切な思い出の詰まった象徴の喪失であり、この世界の誰よりも多くのものが失われたと感じるでしょう。これが主観的現実です。

これは一見すると、見る人によって感じ方は違うという浅薄な言い方もできてしまいますが、注目すべきは「現実とは時として心のなかに在るものである」ということです。

もう一つ、身近な例を出しましょう。ここに1万円札があったとします。これは物理現実としては単なる印刷された紙きれです。しかし客観的現実として、それは1万円分の「価値」を持つ紙切れです。この「価値」は物理的には存在せず、しかし実質として「価値」がそこに存在すると世間ではみなされます。

この物理的現実と、客観的現実のスリップの間にあるもの。それが観測者たる「人の心」、「意識」というものが生み出した、現実には存在しないが、実質的にあるもの…バーチャルな「なにか」です。貨幣の価値、あるいは宗教上の「天国」など。

すなわち、仮想(バーチャル)なものとは、これらの異なるレイヤーの現実がすれちがうその狭間に、人の意識によって生じていると言えるでしょう。
例えば単なる燃焼反応による変質が、「喪失」とされるように。あるいはただのモニュメントの喪失が、ある人にとってはモニュメントを象徴とした数多の思い出の消散ともなりうるように。


やや抽象的な話となりましたが、こうした「現実」は「物理的現実」を除き人の意識との関わりの中で生まれるものであり、またそれは共有される範囲によって幾つものレイヤーに分かれ、その間には差異が生じうるということはご理解いただけたのではないでしょうか。
ではいよいよ本題に入りましょう。



◆「バーチャルな存在」はどの現実のレイヤーに存在するのか?

さて、前項で提示した「物理的現実」「客観的現実」「共同主観的現実」そして「主観的現実」のうち、我々のいう「バーチャルな存在」は、どの現実に位置しているのでしょうか?

物理的現実には存在しないということはお分かりでしょう。そこにあるのはアバター操演システムと「中の人」というハードウェアのみで、バーチャルな存在は物理的実体を持ちません。
一方で、主観的現実としては、「まるでキャラクターが生きているようだ」という素朴な認識が可能であるように、少なくとも一部の人にとってはバーチャルな存在の実在性はその人の心の中での事実となりえます。そうした個人の集合としての共同主観的現実の中でも、同質な考えが広く共有されることで、それは同じく事実となりえます。いわゆるVTuberのファンコミュニティやVRクラスタの一部がそれにあたるでしょう(無論、中にはそうした認識を否定する方もいるのでしょうが、大勢はそうであろうと考えます)。

しかし、これが「客観的事実」であるかについては、大いに疑問符が付くでしょう。現代の大半の人間は、VTuber、あるいは「バーチャルな存在」なるものが存在するか?と問われた時、首を縦には振らないと思います。

そこには幾つか理由があると思いますが、なによりもまず「物理的現実的には存在しない」という厳然たる事実があり、また「バーチャルな存在」という考えが突飛で既存の常識と相反するというのもあるでしょう。なにより「そも、そんなことに意味があるのか?」という疑問が彼らをその認識から遠ざけるでしょう。
現時点で「バーチャルな存在」とは、特定のクラスタ内で共有されている共同主観的現実の中にしか存在しないものなのです。

私はこれを拙稿で「視聴者と配信者の間に生じる共同幻想こそがVTuber(バーチャルな存在)の本質である」と指摘しました。

私の論考は、全てこうした「バーチャルな存在」は特定クラスタの観測者の心の中(共同主観的現実)の中、そして「バーチャルな存在」の大本たる本人の主観的現実の中にしか存在しないということを前提に進められてきました。
それは私の論考が、主に「バーチャルな存在」の内面、精神的な面についての考察を主眼にしてきたためです。それゆえ、「バーチャルな存在」の実在性は、主体となる本人、そしてそれを見る視聴者との間でさえ共同主観的現実として共有されていればよく、それ以外の人々からの客観的事実としての承認を必要としませんでした。



◆バーチャリズムの問題と批判

ひるがえって、先に紹介したバーチャリズムは、この成立のためにはバーチャリズムという考えが客観的事実のレイヤーまで拡張されねばならない、言い換えれば万人とは言わずとも、世の中で少なからぬ割合の人がそれを「客観的現実」として受け入れることが必要になると、私は考えています。
なぜかといえば、それはバーチャリズムの要請する現実世界からの完全な独立という理念が、真っ向から「物理的現実」に反しており、そうした物理的現実という「強い現実」との矛盾を解消するには、多数の人の承認のもと「客観的現実」として受け入れられるしかないからです。
どういうことか、説明していきましょう。

「バーチャルな存在」の背後には、「中の人」、アバター、各種操演システムという構造が必ず存在します。それなくして、現実的にバーチャルな存在は成り立ちません。
バーチャリズムの唱える「バーチャルな存在」の現実世界からの独立とは、いわばこうした物理的現実との矛盾に対し目を瞑ることに他なりません。

もっとも実のところ、こうした物理的現実と矛盾してなお客観的現実が人々の間で信じられるということは、さほど珍しいことではありません。代表的なのが、先に紹介した「貨幣の価値」であったり、あるいは「宗教的世界観」であったりします。
前者はまだしも、後者などは特に現実の物理法則との矛盾をはらみながら、なお多数の人間から信仰されているという現実があります。例えばアメリカでは、「人は神によって創られた」という創造論をいまだに4割の人が信じています

このように多数の人によって信じられた現実は実に強固であり、同じように客観的現実として承認されることが、物理的現実という大きな重しを跳ね除けるには必須であると思います。ゆえにバーチャリズムが真に「バーチャルな存在の現実世界からの独立」を望むのであれば、人々の認識をそこまで書き換えるしか方法はないと考えます。

これは非常に困難なことです。上記の例が示すように、客観的現実の強固さとは、時に物理的現実さえも超えるのですから。
しかし、それでも意識の変革を試みるのであれば、そこには必ず何らかの「実利」あるいは「実効性」が必要となるでしょう。貨幣が、貨幣が価値を持つという認識が社会システムとして実効性を持つがゆえにその信仰を保っているように。あるいは宗教が、コミュニティーの一つの軸として、あるいは心の支え、生活を律するものとしての役割を持つことで続いているように。

バーチャリズムに今足りないものの一つは、そうした「実利的」「実効的」な側面ではないでしょうか。俗な言い方をすればバーチャリズムには、それを信じるに足る御利益が少ないのです。それも、物理的現実を覆し、人の客観的認識を書き換えられるような。
それなくして、物理的現実に目をつむった思想は、厳しく言えば空想の域を出ないのではないかな、と思います。



◆バーチャリズムへの提言

「信じるもの」の間で共有される共同主観的現実の中で完結する私の「バーチャルな人格」論に対し、万人に現実的構造を離れてバーチャルな存在の人格そのものの承認と尊重を求めるバーチャリズムは、より包括的かつ崇高な考えといえましょう。が、それゆえに「押し付けがましさ」を孕むものでもあり、物理的現実との矛盾もまた重くのしかかります。

そのうえで、バーチャリズムという思想に対し私から幾つか提言するならば、一つは「現実世界を全く想定しない、バーチャルな人格の独立」という旗印のひとつを降ろすことです。
我々の人格が、物理的ハードウェアに基づいていることは紛れもない事実です意識のみが遊離して存在することは物理的な現実としてありえません。
そして思想を体系付ける上で、この「矛盾」の存在は見逃すべからざるものです。ゆえにその旗を降ろすか、あるいは、唯心論のような思索から助けを得ることが必要でしょう。


もう一つの提言は、これとはまた別の「主観的現実の尊重」というロジックからのアプローチです。
ややセンシティブな話題となりますが、例えば性同一性の問題において、性自認と物理的な性別が異なる場合は、当人の主観的現実が尊重されるという流れに世間は向かいつつあります。
同じように「個人の尊重」、あるいは「自己同一性の権利の尊重」という観点から、倫理的に「バーチャルな存在の人格は、現実の構造と切り離して考えら得られるべき」と主張し、体系化しようとするのであれば、バーチャルな存在の背後にある物理的な構造の排除もまた理解を得ることができるでしょう。「主観的現実」とは、物理的現実から最も自由な現実の認識なのですから。



◆さいごに

今回は自分でも今ひとつまとまりのない原稿になってしまったなとやや反省しています。
が、重要なことは、2020年現在、VTuberを始めとしたバーチャルな存在はいまだ、一部の視聴者の共同幻想、共同主観的現実の中にのみ実在するということです。

バーチャルな存在が「実在する」という、物理的現実に反する認識が認められる=客観的現実として受容されるには、すなわち今の形でのバーチャリズムが理解を得るには、大きな社会の変化と長い時間が必要となるでしょう。あるいは、そうした変化は起きない可能性すらもあります。

しかし、拙稿で書いた遠い未来の姿…VR世界が社会の基盤となり、物理世界=物理的現実が重みを失う何十年も先の未来が到来した日には、AIの発達や人間の電子生命化などさまざまなエポックとともに、人々は「人格とはなにか」という問いに直面し、世界の客観的現実はコペルニクス的転回を迫られるのではないか、と私は予想しています。

そうなった時、はじめてVTuberたち「バーチャルな存在」は、そしてバーチャリズムは、その歴史的な先駆者としての役割を改めて認められることでしょう。

物理論者である私は、科学的に矛盾を孕んだ議論に足を踏み入れるのを忌避するがために、主観的現実の中にはバーチャルな人格の存在を認めても、そこから先に踏み出すことは今の所難しい…つまり「心の中の問題」としてのみバーチャル論を語らざるをえません

そこから一歩を踏み出そうとするのらくら氏思索に拍手と応援を。そして願わくばその思想が、より広く、客観的現実として共有される日が早く来んことを、心から願っています。

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