極論で語る人

noteに限らず、ネットの中では極論で語る人が多いなという印象を受ける。
自分もよくやっている気がするが、特に極論を語る上では避けては通れないだろう。

自分も同じことをしないとわからない場合もある。

日本を蝕む「極論」の正体という本の中で、極論は競争のない、閉鎖的な集団や組織から常に発生するとあった。これも極論かもしれない。常に○○する。国語の問題とかだと不正解であることが多い表現だ。

ただ、僕は必ずしも間違っているとは言えないと考えている。

ネット社会においても、競争がないわけではなく物理的には閉鎖空間というわけでもないが、慣れや好みの問題で、その人個人は、似たようなジャンルに半ば閉鎖的に入り浸っていることが多いと思われる。そうなってくると、同じような内容ではなく、極論で語る人に飛びつきがちになる。

特に極論で語る人は断定的に語るので、なんか正しいのかも?とか感じてしまう。中には過激な発言をしている人もいるだろうが、その中にある種の知性やユーモアを感じると一定層のファンがつくことになる。

インフルエンサーたちはこの辺をうまくやっている印象だ。

競争ではないが、口論などは日常茶飯事に起きている。何のために極論で語っているのかは不明だ。自分の(正しいと思っている)主張を世に示したいから・目立ちたいからといった自己顕示欲的なものもあるだろう。単に気に入らないとか。

僕がこの記事を書いているのは何か書きたいと思ったからだ。極論がテーマなのはnoteの記事をいくつか読んでいて感じたからだ。他の理由はない(と思う)。あまり理由になってないな。

僕がよく感じているのは、極論と持論と感情論がごっちゃになって、いわゆる「お気持ち表明」の極論が氾濫しているということだ。

SNSなどで一方通行に近い発信の仕方で極論を言って、後は相手にしないみたいな逃げ切りのようなものも多い。

一方で、大体そういった発言は炎上しがちなので誰かに嚙みつかれて、元々感情論だったのがさらにヒートアップして収拾がつかないといったものを目にすることもある。

こうなってくると、仮に日頃交流があった人同士であっても、自分にとって気に入らないから排斥しよう、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとなって、相手を全否定することにつながりかねない。

「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」で表に感情を出すのは止めておいた方がいいようなケースも多々ある。特に感情論になってくると思考停止のような状況に陥るので、それが解決したりおさまるまでは
動物的である可能性がでてくる。

メディアで出演者が割と感情的に議論をしているような気がするのは、大衆受けのための演出なのか素なのかはわからないが、何かと自分の思想と相容れないものについての場面が多く、それらが極論になりがちだと思う。

気持ちよくなりたいがために、周囲への影響を気にせず声高々に極論で語りたいという人は別にいいが、不特定多数の人に好かれたいと思う人は、特に感情をのせて極論では語らない方がいい。

話は変わるが、ゲームの新作発表動画など?で日本語でコメントできない設定になっているという事例があるようだ。僕は直接見たことは無い。他にもレビュー関連を日本語でできないようになっているとか、何かと日本人というのは批判的なものを表に出したがるのかもしれない。

日本人の自己肯定感が低いというのはいくつか調査結果がある。自己肯定感が高い人は他人に寛容であるようだ。

極論で否定的なことを語る人は、とりわけ自己肯定感が低い人なのかもしれない。



極論で語る記事を書いたので最後に

noteの記事の書き方などをレクチャーしている人たちが、印象を考えて漢字を使わずにひらがなで書こうと言っているのをよく目にする。

「アルジャーノンに花束を」という有名な小説があるが、冒頭のひらがなラッシュでいつも挫折する。めちゃくちゃ読みづらい。しかも、数ページ程度ではなくけっこうなページ数でひらがな表記がされている。

noteで記事を書いている皆さん

一般的に漢字で表現される言葉は漢字でお願いします。一方で「兎に角」とかは逆にひらがなでお願いします。あと、マジで改行してください。

理由
俺が読みにくいから


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