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クリスチャンだから、人種差別問題について祈り、考えてみた結果

 書き始める前にまず、亡くなられたジョージ・フロイドさんへの敬意と、哀悼の気持ちを込めて、イエスキリストの名前で祈ります。アーメン。

(このnoteは一週間前に書いて下書き保存していたものです。備忘録として公開します)

 連日、SNSで見かける #BlackLivesMatter の運動。「私は日本人だから関係ない」なんてことは考えていないが、発信しないでいる私に対して『なぜ日本人は情報を自ら調べ発信しないのか』と海外の友人からの問いかけにモヤモヤする数日間だった。

カオスの中で最も大切なこと

 世界は今混乱している。未曾有のパンデミックに始まり、現在はその終息も待たず、人種差別に声を上げる人々の暴徒化が問題になっている。頼りにしていた両親も祖父母も、国のお偉いさんたちも、賢そうな専門家たちも、2週間先さえ予測できずにいるほどだ。世紀的なカオスだ。そのカオスの中で、一見「正しそうなこと」を叫んでいる人は山ほどいる。そして、「一見『正しそうなこと』をしたい人」はそれ以上にたくさんいる。

 「正しそうなこと」が、果たして本当に正しいか正しくないかの判断基準は、私たちクリスチャンにとって「イエスの御心」かどうかだ。まあその御心を知ることがクリスチャンにとって容易かというと、そうでないのが難点なのだが笑。

 私は友人に「人種差別問題について調べて発信しよう、今人々のために立ち上がるときだ」と促された時、以前の私なら率先して行動していただろう、でも、今はそうすべきではないと思った。また同時に、イエスは私に何をして欲しいと望んでいるだろうか?と、まず御心を求めて祈りたかった。クリスチャンの友人の多くが、「隣人を愛せ(love your neibor)」のような聖句を黒背景に載せて人々に呼びかけていたのも見たが、それでも私には、その行動はイエスには示されなかった。ひたすら祈り、モヤモヤと答えを与えられずに過ごした数日間。今朝、ようやく祈りに答えが与えられた。

カオスの中で与えられた答え 「和解のために祈る」

 祈りに答えが与えられた、と聞くと、何か具体的な行動が明確に示されたように聞こえるかもしれない。祈りに祈ってイエスの御心を探り求めた結果、新たな祈りの課題が示された。それは「和解のために祈ること」。

 最初、祈りの中で、「和解」という言葉が浮かんで来たときは、「おっけーイエス様!私黒人と差別主義者のみんなが和解できるように祈るねー!」とやっと与えられた答えに勝手にすっきりしていたのだが、祈り続けるうちに「これじゃない感」、なんとも言えない違和感にまたモヤモヤした。

 心に平安があるまで祈り続けるのが、私の日々のデボーションのスタイル。祈り続けると、私が祈るべきは「人と人との和解」ではなく、「イエスと人々の和解」を祈るべきだとわかった。それまで、答えが得られず感じていた罪悪感のようなものは消え去り、平安に満たされた。

すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、私たちに和解の福音を委ねられたのである。(コリント人への第二の手紙5:19 口語訳)
十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけてほろ母してしまったのである。(エペソ人への手紙2:16 口語訳)



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