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悲劇と向き合う時間

私たちは、物語が好きです。
映画や小説は、私たちを飽き飽きした日常から連れ出して、ワクワクするような非日常の世界へと誘ってくれます。

でも、物語は楽しいものばかりではありません。
悲劇というジャンルがあります。

喜劇が退屈な日常を忘れさせてくれるとすれば、悲劇は、日常の尊さを教えてくれるものです。

悲劇を観るたびに私たちは、普段アタリマエとしている日常が、実はとても脆弱な基盤の上に成り立っていることに気付かされます。一分も遅れずに動き続ける電車。無料のお水。スイッチひとつで流れる電気やガス。標識や信号機のある道路。大切な人の命。。。

事件は、ある日突然に起こります。

もし、自分や大切な人に難病が見つかったとしたら。交通事故で家族をいっぺんに失ったら。最後に交わした言葉はなんだっけ?あんなひどいこと言わなければ良かった、、、

物語は私たちに、誰しもが常に悲劇と隣合わせだということを、リアリティを持って教えてくれます。そして、当たり前の日常が仮初めのものであり、なんの変哲もない日々が貴重であることを再認識します。

でも私たちはすぐに、「それは相当に少ない確率なので、まあ当分のところは大丈夫だろう」と思い直します。考えても仕方がないという諦めでしょうか。あるいは「そんなことを危惧していては、今日も今日とて当たり前のように回っていく社会に置いていかれてしまう」という焦りかもしれません。

当たり前の価値を知っていながら、それでいてなお当たり前を軽視せざるを得ない私たち。そこにはある種、病的な何かを感じます。

一方で、自分の生き方、日々の過ごし方を考え直し、改めるきっかけとすることもできます

自分の大きな夢を追っている人。出世の為に日々頑張っている人。経済ゲームに没頭している人も。時には求めすぎるのをやめて、当たり前に感謝してみるのもいいかもしれません。

ところで、明日は関東大震災から96年目の防災の日です。
悲劇と向き合う時間は身近に転がっているものですね。

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