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「病気のわたし」という自己規定

月一の通院日でした。
最近少し気になることがあり、近況報告として下記のようなことを伝えた。

それは「その場にいられないような気持ちになる、息苦しさや若干のめまい(貧血みたいな感じでクラクラする)等を伴う不安感」。別に今に始まったことではない。小中学校の朝会とかで、よく具合が悪くなってその場でしゃがみ込む同級生がいたと思うんですが、まさに私はそれだった。そして、大人になっても無くなってないな〜ということに最近気が付いた。

誰かが運転している車のなか、数十人が集まるような仕事の研修や会議、ときおり電車内、あとは自宅で1人で料理をしているとき。場所や状況に一貫性がないし、どういう感じ、と言われるとやっぱり一番しっくりくるのは「その場にいられない」。(認識もぼんやりしすぎだけど、ここをあんまりはっきりくっきり認識しないままでいたい、とも思ってる。)

普通に身体の具合が悪いときと半分半分なのかもしれないけど、なんかこれっていわゆるパニック発作というやつでは、と最近気付いたというか、そういう考えもあるな、と感じてしまって、そのことがさらにこの「きたな…」(+しゃがみ)の頻度をあげてしまってる気がしてならない。

病気を病気として認識してしまえばそれは本当に病気になってしまう、みたいな考えが私の中にぼやっとある。

今回の通院でも「これ、先生に伝えていいものかそれとも伝えることでなんらかの一線を超えてしまうのでは」と思ったけど、先生に言っちゃいけない言っちゃいけない、と躍起になるのも少し違うような気がして、単なる近況報告として、最近こういうことがある(そして過去にも同じようなことがあった)、と伝える。

先生曰く、広場恐怖症とかパニック障害の類とのこと。あぁ、予想通り。つらいようなら投薬治療もありますよ、と言われたが、とりあえず今はいいです、と返す。

こうして文章にして残すこと、そして自分の公開日記(このnoteのことをなんといったら良いのかよくわからない)にのせることも、もしかしたらこの「きたな…」(+しゃがみ)を無くすためには良くないことなのかもしれないけど、このことに関連して思うところがあり、それを残しておきたいのでこうして文章にしています。

思うところ、というのは、
「自己規定は少ない方が生きやすいということ。でも、全ての自己規定をとっぱらって生活しようとしていると心と身体を壊す場合があること。」

このバランスが難しいな、ということを最近ひしひしと感じており、もしかしたらこれが私の向こう数年のうっすらとしたサブテーマにもなるかもしれない(ちなみにサブテーマはいくつあってもいいと思う)。

現在私は退職をして療養中。前の職場は労働環境も良くいわゆる”安心・安定の職場”で、仕事内容も好きだったけど、私は続けられなかった。泣きながら職場から帰る日々(色々あった)に限界を感じてしまった。いつかまたどこかで仕事はしたいけど、今はしばらくお休み。

退職を決める前に「(2度目の)休職」も考えてはみたけど、そうしなかった理由の一つが、「病人です」を全面に出していると私はマジで病人然としてしまうということ。

休職をしていた時期もある。毎日泣いて、ほとんどの時間をベッドで過ごしていた。ベランダを眺めては死にたくないと泣き、夫への「いってらっしゃい」「おかえりなさい」はベッドから。食事だって適当で、なんなら別に食べなくてもよかった。外にはほとんど出なかった。

あの頃、「仕事を休んでるんだからきちんと療養しなきゃ」のほかに、うっすら「仕事を休んでるんだから”つらい私”でいなきゃいけない」という思いも今思えばあった気がする。ずるくて卑怯で認めたくないけど、多分そういう思いが私にはあった。私は病気なんだ、という自己規定が強過ぎた。
(その癖、面談時に上司が繰り返す「あなたは今病気だから、もう少し休んだ方がいい」という言葉にひどく傷付いたりもしていた。今となっては、「その状態はいつか治るものなんだよ」という上司の優しさゆえの言葉だったのだと思っている。)

生活の軸が「自分は病気」になっていた。治療に専念するための休みなんだから、間違いではないのかもしれないけど、私には合っていなかったみたい。

ただしその後復職してしばらく経ち、これからは過去のことは過去のこととして切り替えて仕事頑張るぞ〜!と思ったのも束の間、これまたあっという間に”明らかに病気”の状態になってしまった。ショックだった。病気という自己規定を外そうとして頑張っていたはずなのに。病気の私じゃなくて、仕事を頑張る私になりたかっただけなのに。

前述したような理由から2度目の休職はしたくなかったこと(休職している間は病気でいなきゃいけないという謎の思い込みが強過ぎて治るものも治らない)、前回の復職時に「次があればその時は私は私のためにこの職場から自分を引き離そう」と決めていたこと、あとはこれもあとで文字にして残してみたいけど、「もう誰かのせいにしたくないな」という思いもあったりして、少しだけ迷ったけど割とあっさりと「退職」を選んだ。

これが正解だったかどうかわわからないし自分が選んだ道を正解にしていくしかないんですが、今のところはこれでよかったと思っている。

以前休職した際には、休職に入った途端それまで我慢してたものが堰を切ったように出てきて精神的にも身体的にも最悪の状態が続いた。今回退職して最終出勤日が終わった後もそれを覚悟していたけど、拍子抜けするほど調子が良くて。もちろんベッドから出られない日もあるし、1日中出かけたら翌日翌々日と寝込むこともあるけど、それにしたってかなり穏やかな日々。

あのとき「もう働けない」となってから2度目の休職を選んでいたら、全然違っただろうな、と思う。
私は非常にばかで単純。きっとまた「自分は病気」規定が強くなりすぎて本当に、治るものも治らない、負のループに陥っていたような気がする。
(まぁ結果論というか、あっちを選んでいたら、というのは誰にもわからないし、この先、やっぱりあのとき……と後悔することだって全然あると思うけど。)

「広場恐怖症」や「パニック障害」という言葉を、自分の中に自己規定として取り込むのはやめておこう、と思うと同時に、
同じような傾向のある人たちはどんな感じで対処してるのかな〜〜〜と探して自分なりに対応策に考えるにあたっては、やっぱりこういう「言葉」は便利だと思う。

そして、うつ病だって、私の場合は同じことなのかもしれない、と少しヒヤッとする。自己規定として取り込むと本当に私は「それらしく」なってしまうのだ。
でもやっぱり「困っている」「困っていた過去がある」ことは事実だから(=事実なだけあって?)、完全に無視して生活しようとすると、それまた困ったことになってしまう。

「病気のわたし」にみすみす自分のアイデンティティを乗っ取られないように。でも自分の傾向や性質は無視せずに、綺麗事でもなんでもなく、なるべく無理せず穏やかに暮らす。
この2つのバランスを取るのはとても難しいけれど、少なくとも私にとっては、生きていく上で必要な技術というか知恵なんだろうな。

(※精神科医療を否定する気は一切ないです。もしかしたらそういう風にも読める文章かな、と思ったので念のため補足。心の底からもう大丈夫!と思えて主治医の先生のOKが出るまで、とにかく真面目に通院・服薬を続けるつもりです💊
頑張れわたし〜!!!!!そしてありがとう先生〜!!!!!)


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