進化論

ホモ・デウス(上) まとめと要約

『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来(上)』(ユヴァル・ノア・ハラリ)の簡単なまとめと要約です。ハラリは歴史学者であり、『サピエンス全史』の著者でもあります。本書は「人類とは何なのか?」「人類はこれからどういう方向に向かっていくべき(でない)か?」ということが書かれています。

とても簡単にまとめると…

・人類は今後、不死・幸福・神性を求めるようになる。
・科学革命により人間至上主義という宗教が確立した。
・人間と他の動物の違いは「柔軟な協力ができるか否か」である。
書字と貨幣の発明が虚構の浸透を加速させた。
・科学と宗教は相補的な概念である。

以下、要約です。


第一章 人類が新たに取り組むべきこと

長年の間、人類の敵は「飢饉・疫病・戦争」であり、これらによって計り知れない数の人間が命を落としてきた。しかし、この3つの敵は、今や問題ではなくなってきている。食料不足はあれど飢え死にする人はほとんどいないし、たとえ未知の疫病が拡散しても現在の医療技術をもってすれば数年たたずにその原因を突きとめて対策を立てることができる。戦争も核兵器の登場によって、避けられないものではなくなっている。もちろんこれらの問題がすべて解決されたわけではない。しかし、飢饉も疫病も戦争も「人類が制御できない問題」ではなくなった。

ではこれからは何が人類の課題になるのか。人類の次なる目標は「不死・幸福・神性」を手に入れることである。

遺伝子工学や医学は目覚ましい発展を遂げており、いまや私たちは人類の寿命を最大限に生きられるようになった。そしてそれらの研究は同時に「死を克服する行為」でもある。あからさまではないにせよ、私たちは不死を手に入れる方向に進んでいる。

外的要因で生存を脅かされることがなくなった人類は次に幸福を求める。しかし、幸福を得ることは簡単ではない。そこには2つの理由がある。1つは、幸福とは自分の期待通りのことが現実に起きたときに得られるものであり、生活水準が上がれば期待も増大してしまうということである。結果的に生活がどれだけ豊かになっても幸福度は変わらない。2つ目は、幸福の源である「快感」は持続しないということである。これは生化学的に仕方のないことだ。快感が持続してしまうと、動物は次なる繁殖行為を行わなくなってしまう。

人類は、人工的に快感を与えることによる「生化学的な幸福」の追求に力を注いでいる。そういった操作の中には、良い操作と悪い操作があり、国家はそれらを区別して統制することを望む。しかし、一方で「幸福=快感」という定義自体を疑問視する者もいる。ブッダの幸福観は「快感への渇望を切り捨てること」を良しとする。

いまのところ、人類は生化学的な幸福を求める方向に進んでいる。しかし人類は永続的に快感を得られるようには設計されていないため、人間を根本から作り変える必要がある。

そして、不死と幸福の追求は神性の獲得につながる。ここでいう神性の獲得とは全知全能の神になることではなく、生物的な可能性を大きく超えた行為ができるようになることである。外界の道具のアップデートではなく、人間の遺伝子や神経自体を操作することによる人類のアップグレードである。言うなれば、ホモ・サピエンスからホモ・デウスへの進化である。

こうした流れは誰にも止めることはできない。そして不死と幸福の追求のために得た知見や技術は、必ず神性の獲得に利用される。新たな技術は当初、「治療のため」として使われるが、その用途を将来においても治療目的だけに制限することは不可能なのである。

本書は未来を予測するために書かれたものではない。ホモ・サピエンスの過去を知り、私たちの未来図を想像することにより、人類の新たな選択肢を考える手がかりとなることを目的としている。

第二章 人新世

人類は、地球上の生態系に影響を与えるほど大きな存在になった。というよりも、人類が地球の生態系のルールを変えてしまった。これまで生態系は各エリアごとに壁が存在し、一定の距離が離れていれば、他のエリアの生態系が自分のエリアに与える影響など考慮する必要はなかった。しかし、人類がその壁を打ち破ったことにより、地球は一つの生態系として機能するようになった。このような人類による生態系の破壊や支配は数世紀かけてゆっくり起こった。

太古の狩猟採集民はアニミズムを信仰していた。しかし、現代の多くの先進国ではこの考え方は受け入れられていない。農業革命と聖書の誕生を境にアニミズム信仰から人間至上主義へ移行した。人と自然を別のものとして捉えるようになったのだ。

農業革命が生態系に一番大きな影響を与えた要素は、「家畜」という新しい生き物を生みだした点である。家畜は、人間のために飼育され、繁殖させられる。その際、家畜が持つ情動や欲求は無視される。無視しても家畜は死なないからだ。しかし、情動や欲求が生物として繁殖するために必要なくなったとはいえ、それらが急に無くなるわけではない。ケージに入れられた家畜は欲求を満たす衝動に駆られるが、それを果たすことができずに絶望する。何千世代も前に形作られた欲求は現在それが生存と繁殖に必要のない場合でさえ、主観的に感じられ続けるのだ。

なぜ家畜が主観的に情動や欲求不満や絶望を感じていると言えるのだろうか。情動は生化学的アルゴリズムである。動物は一つの複雑なアルゴリズムである。動物は自分の身に起きている状況について、本能的に計算を行い、最も生存確率が高い行動を選択する。そしてその計算が下手な個体は自然に淘汰される。もちろん実際に論理的に計算を行っているわけではない。当の個体にとっては、感情に従って行動しているだけだ。あらゆる哺乳動物に共通する情動として「母と子の絆」がある。哺乳動物の赤ちゃんは食べ物と住みか、そして母親の愛を必要とする。それにも関わらず、われわれは食肉産業や酪農で簡単に家畜の親子を引き離す。

農業が始まったことにより、一神教の宗教が生まれた。新しく作られた神話は家畜や植物を人間が支配することを正当化した。有神論は多様な動物や自然が同等に扱われていたアニミズムの世界観を、神と人間とその他の動植物という構図に書き換え、農業経済を正当化した。神の役割は「人間の行為を正当化すること」と「人間の声を自然に届けること」だった。聖書では、動物は人間と神の双方の権益としてしか捉えられていない。

農業革命は経済革命と同時に宗教革命も引き起こした。農業により生まれた新しい経済的関係は人間による動物の支配を肯定する新しい宗教的信念とともに出現したのだ。家畜を下等な存在として扱い始め、さらには支配者は被支配者すらも人間以下の存在として扱うようになった。そして神話はそれらの行為を正当化した。

科学革命は、人間至上主義という新しい宗教を生み、神をも無意味な存在にした。科学革命の神話に登場する神は人間(ニュートンやアインシュタインなど)だ。科学によって人間は農耕時代に考えられていた神よりもはるかに大きな力を手に入れ、人間を神聖視するようになった。

第三章 人間の輝き

人間は他の動物よりも優れていると考えがちだが、人間と他の動物で根本的に違う部分はあるのだろうか。一神教の信者は人間には不滅の魂があると主張するが、科学的には魂の存在は認められていない。

ダーウィンの進化論が一神教の信者に受け入れられないのは、それが彼らの「人間には不滅の魂がある」という信念を崩すからである。進化論では、「体は部分(組織、細胞、分子、原子)の集合体である」ということを前提に、その部分が少しずつ変化したことによって進化が起こってきたと考える。一方で一神教の信者は魂は不滅で分割不可能だと考える。つまり魂と進化論は相容れないのである。

心と魂は別物である。魂は永久に不変・不滅であるのに対し、心は刻々と変化する。心という意識的経験を構成するのは、主に欲望と感覚という2つの要素である。では、動物にも意識的経験はあるのだろうか? この問いに答えるには心と意識について分かっていることを整理する必要がある。脳内のニューロンが爆発し電気信号を発することによって喜びや怒りなどの主観的経験が発生することが分かっている。しかし、電気信号の集合体がどのようにして主観的経験を生み出しているかは分かっていない。主観的経験は、電気信号単体の作用ではなく、電気信号の集合体としての作用と考えられている。

意識はニューロンの発火によって生まれる。しかし、進化の過程に意識がどう必要だったのかは説明できない。人間の行動は「環境の認識→ニューロンの発火→主観的経験(感情)→行動」という一連の流れを持つ。しかし、科学が発達し各フェーズごとの詳細な研究が進むにつれ、この一連のフローに主観的経験が必要だった理由が説明できなくなる。なぜなら、自律神経や免疫など、人間の機能の90%以上は主観的経験がなくてもはたらくからだ。さらに言えば、コンピュータは主観的経験なしに全てのアルゴリズムをこなす。心や感情がアルゴリズムの一部であるならば、その役割を数学的に表現できるはずだが、我々はそれを達成できていない。ならば、心や意識は、神や魂と同様に科学から忘れ去られるべきなのだろうか? しかし、上述の通り心と魂は全く別物であり、主観的経験は我々が常時感じている明確な現実である。さらに、社会の倫理的ジレンマはすべて主観的経験を起点として発生している。人間をデータ処理機としてとらえたところで、こういった問題は解決しない。そもそも人間をコンピュータと同列で捉えること自体が間違っているのかもしれない。それにコンピュータには意識がないという前提も間違っているかもしれない。よりコンピュータがより複雑になれば、いずれ意識を持つようになるかもしれない。とはいえ、他者(他物)に意識があるかどうかを証明することは今の我々にはできない。

では、人間以外の動物にも意識や情動は存在するのか? 今のところ「動物の行動はすべて無意識的なアルゴリズムによる結果である」ということを立証することはできないので、とりあえず「動物にも意識がある」とみなしている。

人間とその他の動物の間に本質的な違いはない。しかし、だからと言って動物を過度に擬人化して理解しようとするのは意味がない。動物のひとつの能力の側面を見ただけで、実際の能力を過大評価するばかりでなく、本来の能力を過少評価しかねない。

では、魂や意識のような人間特有の要素がないとしたら、人間とその他の動物を分けた違いはいったい何なのか。人間はなぜ世界を支配することができたのか。それを可能にしたのはは「柔軟な協力」である。

チンパンジーも協力をするが、それは親密な関係にあるものたちの間でだけである。一方でサピエンスは知らない相手とも協力することができる。何人もの人々が協力することで社会が成り立っている。その協力の根底には平等主義があり、そこには情動が不可欠であると考えられている。しかし、実際は大きな集団になると必ずしもそうとは言えない。たとえばエジプトの農民はファラオをのために汗水たらして働き、やっとの思いで暮らしていた。一方でファラオはぜいたくな暮らしをしていた。人数は農民のほうが圧倒的に多いのに反乱を起こさない、ある意味平和な状態であった。この状態は経済学的に言えば正しくない。しかし、このような状態が大規模な集団ではしばしば起こっているのである。このような秩序が成立しうるのは、人々が想像上のストーリーを信じているからである。ヒエラルキーが神から与えられたものと信じているからである。そしてこのように物語を創造し広めることができるのは人間だけである。

現実は主観的現実と客観的現実と共同主観的現実がある。客観的事実はたとえば重力のように普遍的に存在するもので、主観的事実は自意識や思考など客観的ではないが自分には100%認識できる現実である。共同主観的現実は、お金のように大勢の人々が共有している主観的現実だ。宗教や国家や企業もすべて共同主観的現実である。

この共同主観的現実を想像できることが人間だけが唯一もつ能力である。共同主観的現実は時代を追うにつれその存在感を増し、今や地球の存亡を左右するほどの存在になっている。

第四章 物語の語り手

共同主観的現実(虚構)はどうしてこれほど大きな力を持つに至ったのか。7万年前の認知革命によりサピエンスは想像力を手に入れ、1万2000年前の農業革命により大規模な人数の人々が共同で生活できる物質的基盤が整った。さらに5000年前に書字と貨幣が開発されたことにより、共同主観的現実は一気に広がりを見せた。書字により、大規模なネットワークでの意思疎通が可能になり、社会そのものをアルゴリズム化することが可能になった。大勢の人々が一つの幻想を信じ、それをもとに行動することによって、幻想は本当の力を得た。

書字によって力を得た組織の中で、文書は次第に神聖視されるようになった。文書こそ正義であり、文書に書かれていればそれは正しいと思われるようになった。文字は現実を描写する方法から現実を作りかえる方法に変わっていった。往々にして文書記録は現実を支配しがちである。

人間のネットワークを維持するために虚構は不可欠である。しかし、同時に虚構は私たちの目的を限定する。さらにそのネットワークを評価するとき、我々は虚構の基準(成績・成長率など)を採用してしまいがちだが、それは現実とかけ離れていることが多い。現実と虚構をしっかりと区別して評価できる能力が今後ますます重要になる。

第五章 科学と宗教というおかしな夫婦

物語は科学に置き換わった。しかし、科学と虚構(共同主観的現実)は相反する概念ではない。むしろ、科学によって虚構は強化される。そして一部の宗教がかつてないほどに協力になる。したがって私たちは科学は宗教とどう折り合いをつけるべきかという疑問に立ち返る必要がある。

宗教とは、人間が考案したものではないものの、それでも従わなければならない何らかの道徳律の体系を人々が信じているということを指す。つまり、自由主義も共産主義もすべて宗教である。

宗教と霊性は似ているようで大きく違う。霊的な旅とは、自分を縛る虚構の一切を捨て、霊の世界へ帰ろうとする試みのことを指した。転じて、現行の制度に疑いを持ち続けることを指すようになった。宗教とは社会的な取り決めのことであるから、霊的な旅を行う者は宗教にとって好ましくない。もとはブッダもイエスも霊的な旅を行う一人の人間であった。

宗教と科学は相反する概念ではなく、相補的な概念である。科学は事実に関する判断は出来るが、倫理的な判断はできない。逆に宗教は人々の行動の倫理的な基準になるが、事実に関する言明はすべきでない。

しかし、倫理的な判断の基準と事実に関する言明は明確に区切られているわけではない。多くの倫理的問題は事実に関する言明を暗に含んでいるため、それらは科学によって解決されうる。しかし、それも全てではないし、幸福に科学的な基準が無い以上、すべての倫理的問題を科学が解決することはできない。

つまるところ、宗教と科学は相性がいい。宗教は秩序を求め、科学は力を求める。これらは互いに相反する指針ではない。現代は人間至上主義という宗教と科学が共存しているが、人間至上主義が新たな教義に取って代わられる可能性は大いにある。


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