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ライター仕事で気を付けていること~語尾などで同じ表現の連続を避ける、の巻~

撮影:東畑賢治

「体系的な知識」がない引け目を克服するための自己研鑽

 文学部やジャーナリズム専門学校卒でもないし、ライター養成学校などにも通ったことがありません。ライターとしての「体系的な知識」を何も身に着けていない、という引け目のようなものがあります。仕事が少ないときなどに自信がなくなると、「社会人大学院にでも通おうかな。社会心理学とかを身に付けたら仕事が増えるかも」と思ったこともありました。
 でも、たいていの社会人は学校ではなく職場で仕事の知識やスキルを身に着けていますよね。懸命に働きながら。ライターもそれでいいのだと思い直しています。
 ただし、僕のようなフリーランサーにはメンター制度とか人事評価とか中間管理職研修とかはありません。当たり前ですけどね。360度評価とか、うらやましいです。若い頃、仕事先(編集者)に「どうして僕に原稿を発注してくれているんですか? 僕のいいところを教えてください」と聞いてしまったことがあります。普通、答えに窮しますよね。「安くて使い勝手がいいから」なんて本音は言えませんから。
 知り合いのライター兼編集者は「文章がうまくなりたいので、いい文章に出会ったら丸ごと書き写している」という独自の勉強法を披露してくれました。写経ですね。他にもすごく努力をしたのだと思います。彼女はいま、某雑誌の敏腕編集長です。
 僕はいま43歳ですが、寿命と貯蓄を考えると、あと30年間ぐらいは現役で働かなければなりません。不安だなあ。この場を借りて今まで働きながら身に着けてきたスキル(たいしたものではありませんが)を振り返り、自戒しつつ前に進んでいこうと思います。もちろん、文章を書くことに興味がある方などに参考にしてもらえたら幸いです。

今年8月で連載開始6周年を迎える「晩婚さん、いらっしゃい!」。東洋経済オンラインアワード2019「ロングランヒット賞」を受賞しました

「~です。」「~です。」などと同じ表現を連続させると読みづらい

 今日のテーマはとても細かいことです。10年以上前、先輩ライターから指摘されて赤面したポイントでもあります。こうやって文章を書いているとき、「~です。」「~ました。」「~ます。」もしくは体言止めなどの語尾が考えられますよね。当時の僕は無自覚に「~です。」「~です。」と繰り返していて、先輩から「同じ表現を連続させると読みづらいよ」と言われたのです。ああ~、確かに! その視点で読み返してみたら小学生の作文みたいでした。恥ずかしい……。
 それ以来、僕は推敲する際に語尾の連続をチェックするようになりました。また、同じ文章の中に同じ表現、例えば「指摘する」などが頻出しないように気を付けています。「指摘する」を一度使ったら、その次は「注目する」などの使用を検討してみる、ということです。もちろん、文脈上その表現がしっくりくることが前提ですけど。

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読みやすい表現を工夫しているうちに文章のリズムが整ってくる

 詩を除くたいていの文章で一番大切なのは「意味」です。誰かに伝えたい内容があり、それを言語という形で発信するのです。意味さえ伝わればいい、という考え方もできるでしょう。でも、相手に「読みづらくて読む気になれない」と思われたら意味すらも伝わりません。文章をできるだけわかりやすく、できれば面白くする工夫は必要だと思います。メールなどでもそうですよね。こちらのことを思いやってくれている文章はとても読みやすいものです。
 同じ表現の連続や頻出を避けることも、読み手に対するこうしたサービス精神の1つです。表現を工夫しているうちに文章のリズムが整ってくることもあります。流れるように読める、と言えばいいのでしょうか。以前、読者の方から「大宮さんの文章はお茶か水みたいですね。毎日でもゴクゴク飲めます!」と褒めてもらったことがあります。もしかすると、「内容が薄い」と叱られていたのかもしれませんが……。

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新聞社説のような陳腐で予定調和的な文章は回避する

 文章にリズムができると面白いことが起こります。書くテーマや取材した内容はすでに決まっているのですが、「次にどんな言葉を置くか」とか「まとめをどうするか」などは文章の流れ任せにできることです。それは予定調和的な表現や結論を回避することにもつながります。
 新聞の社説などを読んでいると、「頭が良さそうなエピソードを挿入したいだけなの?」とか「結論は書きだす前から決まっていたのでは?」と引っかかりを感じることがあります。文章自体は流麗だし、専門的な知識も載っているのだけど、なぜか陳腐だしドキドキ&ワクワクしません。
 いい文章は先が見えません。たぶん、本人も「どうなっちゃうのかな~。まあ、なんとかなるだろう」と思いながら書いているのでしょう。この場合、読み手は書き手主催による思考の遠足みたいなものに一緒に行くことになります。それはワクワクする体験です。
 結局のところ、書き手自身が言語表現をどれだけ愛して信頼できるかにかかっている気がします。推敲という名の丹精をして育てた文章が、想定外の方向に伸びたり奇想天外な実をつけたり。そのスリルと喜びを読み手と共有したいと思うのです。(おわり)

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