見出し画像

無計画に、ふまじめに、弛んで。

弛んでいる。白く燃え尽きるには早すぎるが、一区切りすると、ピンと張っていた気持ちが、だらりと垂れてきて、またピンと張るまでに少々時間がかかわるみたい。頭がぼーーっとしてて、長い長い冬眠から覚めたての熊みたいだ(いや実際には、熊の冬眠覚めたてのことは知らんのだけど)。ToDoリストは詰め詰めなのに。

そんなときほど、手を動かすか、足を動かすかだ。昨日まで、遠征で動き回っていたので、足ではなく、手を動かしてみる。となると、こうやって日記に手を出してみる。書きたいことなんて何もない、ただただ手を指を動かしてみるだけのリハビリのようなものだ。

それだけでも270字くらいは進んだのだから、なんかラッキーだなあ。いや、そもそも何字くらい書くかさえも決まってもいない、自由気ままな筆旅だ。運動前のウォーミングアップさえ、5分だとか、グランド3周だとか走る単位が決まっているのに、それさえもない。

思ったことを思ったがままに記していく。その緩みが、こういう気分のときには良いのかもしれない。取材だとか、レポートだとか、意図ありきで、設計図をもとに文章を書き上げていくことばかり最近してるからこそ、この書き方がえらく馴染むというか、沁みるというか、心身ともに求めていることだった。

何かに向かって一生懸命に、まじめに進んでいると、見えなくなってしまうことがある。右や左、あるいは後ろをよそ見するようなゆとりがなくなってしまうようで。

前だけを、その方向だけを一直線に見ていてはダメで、ふまじめな自分を心に置かないと、自分で自分の首を絞めてしまう。不自由は、自由な発想でしか取り除けない。「ちゃんとしなくちゃいけない」は、自分の思い込みだけでしかないのかもしれない。そうなってくると、超勝手な独りよがり。バランスを考えると、もうちょいふまじめでいいのかもしれない。

張りと弛み、計画と無計画、まじめとふまじめ、どちらに偏っちゃうと、ただ暮らしていくことでさえ大変なんだなあ。

無秩序にニョキニョキ生い茂る”つくし”をみて「花より団子」をふと思い出した。井上真央か。

もしも投げ銭もらったら、もっとnoteをつくったり、他の人のnoteを購入するために使わせてもらいます。