あの日、クリントンと握手した
クリントン(元)大統領と握手したことがある。
そんなことを言ったら信じてもらえないかもしれない。が、実際に握手をした。あれは、安室奈美恵の『NEVER END』が流れまくった2000年、沖縄サミットのときだった。
ぼくは伊平屋島にいて、小学6年生で、沖縄サミットがなんのために開かれていたのかも含め、なんだか状況がわからないままに、島からフェリーにのって会場へ向かった。
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事の始まりは、サミットで沖縄に来るクリントンに、島の中学生らが「うちの島にぜひ訪問を」と手紙を送ったことだった。その手紙を受け取ったクリントンは「行けないので、よければ招待するからぜひ来てくれ」という主旨の返信をくれたそうだ。
サミット期間中のちょっとしたパーティに島の子たちを招待してくれたわけだ。で、島から代表を募って、送り出すメンバーの中でわけのわからないままに選ばれることに。当時、児童会長を務めていただけなのにそんな理由だけで選出するとかよー意味わからんなと思っていた。
ともあれ、そうして島にある二つの小中学校から代表団をつくり、パーティとやらに向かった。島から出る機会があまりなかったので、フェリーに乗って、お店でそばを食べて、宿に泊まれる、それだけで楽しかった記憶がある。
どんなスケジュールが敷かれていたかはわからず、教育委員会のおっちゃんの指示に従ってただけだけど、どうも予定が崩れていることだけはわかった。
台風の影響もあってか、クリントンは早めに帰国せねばならずで、パーティ参加ができなくなったとのことだった。その連絡が届いたようで、事の展開がどうなるのか、そわそわしていた時間があった。
すると、(おそらく嘉手納)基地に向かうことになった。そこから、クリントン大統領らはアメリカへと帰るそうだ。パーティが難しくなったから、そっちのほうへ来てくれということなのだろう。
島に住んでいると、同じ沖縄であっても、「基地」という存在は感じにくい。というか、ほぼ気にすること暮らしていた(その後、高校からの那覇だったが、感覚としては近いものがあり、後に浦添に引っ越したときに初めて基地の"騒音"とはこれかと知った)。
だからか、基地に入れることに興奮した。いつもであれば、祭りなどの機会や働いていたり、知り合いがいないかぎりは、パスポートがないと入れない基地のゲートをすんなりと入っていく。
細かいところまでは覚えていないが、飛行機が配置されたエリアへと向かった。到着してから、景色を見ると、フェンス越しにだだっぴろい空間が見えた。いつでも離陸できるよと待ち構えた飛行機がポツンとあった。
そして、フェンスの周りには驚くほどに人が溜まっていた。みんな、アメリカ人だった。基地で働く関係者とその家族なのだろう。異常な熱気を感じた。国のトップといえど、こんな歌手のイベント並みに盛り上がるものだろうか。日本だとそんなことある? とか思いながら、身長が数十センチ以上もある人たちを下から見上げながらに感じた。
さて、熱気はあるが、まだ当の本人が来ていなかった。会議後なのか、他の会場からこの場に向かっているようだ。すると、しばらくして、立派で長い黒目の車がやってきた。なんだか、SPの取り巻きもすごい。
その場に降り立ったクリントンは、フェンス越しの聴衆に向けて、声をかけるように、歩いて回った。フェンスと言っても、小学生が手を伸ばすくらいは問題ない高さである。住民のみんな、そして招待してもらった僕らは、手を出しながら、対面の瞬間を待った。
プロ野球選手がセンターからライトまでの外野席をゆっくりと回るかのように、クリントンは徐々にぼくら島小中学生ズがいる塊まで近づいてきた。そして、ついにその時がきた。
ミスタークリントン! とかなんとか適当に叫んでいたのに、気づいてくれた。英語がわからず、どんな言葉を発していたのか、「あの手紙をくれた子たち」という表情をして、身長150cmにも満たずに群衆の中、がんばって手を伸ばした小さなぼくの手を力強く握ってくれた。ほんの数秒の間のことだ。
招待されたとはいえ、台風の影響で予期せずこんな人混みばかりの場所で出くわすことになったとはいえ、まあ、たくさんいる中のワンオブゼムでしかないやり取りだった。しかし、それは「今思えば」の話であって、あの時の胸の高鳴りは凄まじかったのだろう。熱狂が完全に感染していた。
あ、ちなみに、クリントンは家族とともに行動していたこともあり、後から気づいたが、妻でヒラリー・クリントン、そして娘のチェルシー・クリントンともちゃっかり握手を交わしていた(あの時は、なんでよくわからない家族とまでするんだろうとか思ってたのだけど)。
そんなこんなで、基地に入れたことが、なおさら外国に関心が湧いた。 のちに、島の短期留学制度でアメリカでホームステイをしたり、国際系の高校、そして外国系の大学にまで進学したが、このときの体験の影響は少なからずあっただろう。
だからこそ、"一番近いアメリカ"としての基地を、その存在を一概に悪いものではないと沖縄で暮らす当事者として感じてもいたわけだ。
いまだに問題が山積みの沖縄。その外に出て暮らしていると、その中に声が届きにくなっていたり、自分の当事者性は溶けていき、空気としての問題を捉えられなくなってくる。
いうても、大見謝の名前まんま沖縄だし、その血とその地をないものにはできないなか、こうやって記憶を辿るだけでも、一つ沖縄の何かを想う時間をつくるのは忘れちゃいけんな。
島にいて、クリントンの大きな手があって、なぜか水木しげるの魅惑に引っ張られて、今鳥取にいるわけだけど、すべては繋がってるし、繋がってるからこそ、距離が違えどその繋がりのなかでできることを考え、かたちにしていきたい。その場にいなくても、その地域で暮らしていなくても、できることはきっとある。
……でもあれだな、いろいろ記憶が蘇ってはきたものの、クリントンとの握手は、右手だったか左手だったか、それは全然覚えてないんだよなぁ。とりあえず……利き手の右手でしたことにしときましょうか。
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