横ならびで、思考畑を耕してゆく
引き続き、「なぜ勉強するのか」について。
その根っこを考えてみる。その「なぜ」がわかったとて、どうなんだろう。わかったら、「ああなるほど、意味ありそう/なさそうだから、勉強する/しない」と二択から選ぶのだろうか。
小中高大そして社会人、どのタイミングであっても究極の一択を選べるわけがない。そもそも判断基準すら自分がわかってないのだから。その基準をつかめるほどに、学びが足りていない。汚れたぞうきんで床をふいても、汚れはとれない。
わからないから学んでみる。わからないから学ぶの止めるわ、じゃなくてさ。学び続けると、ちょっとずつ意味の輪郭が掴めてくるもんじゃないのかな。死ぬまでずっとわからないこともあるかもしれない(それが面白んじゃないか!)
まあ、とはいっても、勉強することでの1gほどのご褒美だったり、アドレナリンどばどば知的好奇心を満たすような楽しみは必要ではあるよねぇ。
少なくてもぼくは勉強することの意味、面白みを堪能しきれてないと思う。まだまだ"百目"になるには程遠く、やさしさに欠けまくる人間だ。大人なのに。
でも、そうなんだ、大人だってまだまだ学ばなくちゃなのよ。その姿を子どもたちにも見てもらいたい。よくわかってもいないのに、理由をごまかして、一方的な圧だけで「勉強しなさい」や「勉強したらわかるさ」と投げるのはちょっと卑怯だとも思うから。
だから、ぼくは学ぶ。大人も子どもも関係ない。平等だ。横ならびで、いっしょに学ぶ。終わりはなく、学べば学ぶほど、自分の思考畑が耕されていく。なにが実るかな?
それが今のところの、なぜに対する、ぼくの納得解。きっと絶対解はない。たぶん、これから新しいことを学ぶにつれ、解は変わってくんだろう。
とりあえず問いをくれた子にには『勉強するのは何のため? 僕らの「答え」のつくり方』っていう本があるよと伝えてみようかしら。本に書いてあることが絶対解になりませんよう。
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