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ビジネスモデル崇拝で「仕事する」とか「お金を稼ぐ」とか

イヤイヤながらでも仕事をしていると「ビジネスモデル」という言葉に出くわす。

「企業価値を高める」「事業で収益を上げる」などを実現するための論理的な仕組み

のことを指すらしいが、社会人になって15年が経った今でもあまりピンと来ない。そもそも「モデル」という言葉に重きを置ことする姿勢があまり好きになれない。

物事は、真似から入って、学びに変え、身につけ自分のものにしていく。そのためには手本・見本となる「モデル」は大事なのだろうけど、「そのモデルをなぞらってさえいれば、もうすべて大丈夫です」といった論調をこの頃は感じる。ネット広告で甘いささやきのように流れてくる「新しい働き方」「好きなことを仕事に!」うんぬんもその類だろう。

特に問題だと感じるのは、真似をするという時点で思考停止になってしまうこと。「身につけ、自分のものにしていく(発展していく)」というその先にあるものが奪われた状態だ。本来、真似をするというのは、頭にとり入れた知識などの情報を身体を動かすことで咀嚼して、よりふかく考えていくための作業だと思うのが。

さて、話は逸れちゃったので、ビジネスモデルの話へ。そう、「XやYといった方程式のように何かを代入して当てはめればうまくいきます。お金になります」と「ああすれば、こうなる」といった理詰めのビジネスっておもしろいのだろうか。

機械がうまく動くように、歯車をただただ回していけれさえばいい。むしろその歯車が滞るようなら、人間が非難させられたり罰せられたりする。そこに体温は感じにくい。

そして、すぐ、わかりやすく「利益が上がる」以外のことには価値を置こううとしない雰囲気ぷんぷんなのが、ビジネスモデルを思考的にも言語的にも好んでつかう人たちである。都会にいる人のほうがこの傾向はつよい。

対して、ぼくは田舎で、農業をするように、そもそも発芽するかわからないものに水を遣り、災害の可能性を考慮しつつ、ゆっくり時間をかけながら手入れをし、その実りを待つような事業ばかり手を出してしまっている。ここに不満じゃなくて、それはそれで自分なりの意義と娯楽を見出せてはいるのだ。

ビジネスモデル重視で働く/働かない、おもしろい/おもしろくない、は信念というか信仰というか、まあ各々が選べばいいことでもあるだろう。

ただ「うだうだ言ってないでとにかく働けよ。おもしろいとか関係なく仕事なんだからしょうがないでしょ」と言ってくる人がいたら、もう困ったもんだ。ジタバタせずに「しょうがない」の一言で片付けるのってどんなに楽な思考停止なんだろう。否定するぶん責任はもって、新たなやり方はそりゃあ探すよ。

こういう価値観がズレるような人と仕事するからつらくなる。ということが、最近やっとわかった。今更かよ、とか言わないで。

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