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すべて明るいよりも、そこそこ暗がりのある生活を。

明るいところが苦手だ。

必要以上に空間がきらめいているとなんだかソワソワしてしまう。明るいとくっきりと姿が映し出されるのに未だに慣れずにいる。

空間について具体的にいえば、「昼白色」や「昼光色」のホワイト強めで発光する電灯が苦手だ。だから、家の電灯はほぼ「電球色」で、オレンジの明かりに頼る生活をしている。普通の家に比べれば、ずいぶん暗い家じゃないないかと思うが、落ち着くにはこれくらいがちょうどいい。

これは慣れのせいもあるのかもしれない。小学生の頃からずっと夜型の生活を送ってきた。社会人になってからは仕事も含め、バーなどの暗がり比率が高い場所にばかり身を潜めてきた。

ちなみに「バー」と書くと、かっこつけちゃってる感じがするけど、カウンターの中と外のどちらも味わって気付くのが、「かっこわるい」から暗がりのバーに身を隠すんじゃないかと思っている。過去の自分のかっこわるさを思い出す場所でもあり、苦々しいやり取りをしてしまったときのダサい表情をなるべく悟られないためには暗いのは丁度いい(かっこつけるためにバーに行くという時点ですでにかっこわるいのだけども)。

とにかもかくもだ、一人になってじっくりと自分に向き合う時間は「暗い」という感覚ばかりがある。

幼稚園での哲学クラスの様子が描かれたドキュメンタリー『ちいさな哲学者たち』では、子どもたちが語らうときに円を囲んで、キャンドルに火を灯す。古来より人類が暗がりで焚き火を囲んできて語らってきたみたく、「考える」と「ほんのり明るい(部分がある)」は相性がいいようだ。そういう習性をぼくらは遺伝子レベルで直感的にわかっている。

人間なんてのも、ぼやけてる部分が多少あって、なんとなくその存在がわかるくらいでいい。暗がりがあってわからない部分があるから、自分や相手についてちゃんと考える。隅々まですべてが明るすぎる透明な社会だと、ちょっとやってらんねぇかもなぁ。

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