見出し画像

人生転落したエリートサラリーマンが    V字復活した大逆転ストーリー(第2章)

〜第2章〜 サッカー漬け、そして挫折

あのドーハの悲劇から数年。
「プロサッカー選手になる」という目標が
「世界で活躍するプロサッカー選手になる」と言う目標に変わったのです。
それは、1998年に開催されたワールドカップに日本が出場し、その後は海外で活躍する選手も増え、より自分の中で現実味を帯びたからです。

ジョホールバル1

(初のワールドカップ出場を決定づけた瞬間 1997年11月)

テレビの向こうの選手と重ねた時、自分が大声援の中で活躍しているシーンが明確なイメージとして沸いていたのです。
それは、私が当時のサッカーチームでは小学5年生ながらにしてエースナンバーの背番号10をつけて、大活躍の時期であり、失敗知らずの自信家だったからです。「自分もあの場所に立てる」と言う可能性を感じたのです。

フランス1

(日本が初めてワールドカップの舞台に立った時 1998年6月)

明確な目標を定めた僕は、
「世界で活躍するために、環境をしっかり選ぶべきだ」と考えたのです。
中学時代は学校の部活に入らず、地区で強いクラブチームに入団。
週3日の練習は電車で1時間かけて通い、土日は毎週試合の日々。
途中入団だったにも関わらず、2年生の新チームになってからは
エースナンバーの「10番」を背負い、順風満帆なサッカー人生でした。
チームも最後の大会では福岡県でベスト4に入ったほどです。
そう私は夢への階段を着実に登っていたのです。

画像3

(中学生最後の試合で福岡県ベスト4の記念に 2002年9月)

そして勉強も怠りませんでした。
その時でも、塾に通っており、成績は常に学年で10番前後
加えて、3年生の時は生徒会の副会長もしていたのです。
そう私は親の笑顔が見たかったのです。
そのためにサッカーだけでなく勉強も頑張り、生徒会にも立候補。
そして私は反抗期さえなかった子供だったのです。

中学3年の最後の大会が終わって秋になる頃、僕の中では
「世界で活躍するサッカー選手になるためには、まずは日本でプロになることが大前提だ」と考えたのです。
そしてそのプランが実現できそうな高校をリストアップしたのです。
当時の私は、複数の強豪校からお誘いを受けていたのです。
最終的には実家から通いやすく、全国でも有数の超名門校に決めたのです。
その理由は「プロ選手の輩出が多いこと」でした。
そして何よりの決め手になったことは監督からの1本の電話だったのです。

その高校サッカー部の練習会に参加した数日後、時間は夜でした。
私は疲れており、いつもより早く寝ようとしていたのですが、
突然母親が興奮した様子で私を起こしにきました。
「監督から電話があって、あなたに「是非うちに来て欲しい」ってよ!!」
僕の眠気は一瞬にして覚めたのです。進路が一瞬にして決まったのです。
憧れの高校の、あの監督からの直接オファー。                そして母親の喜ぶ笑顔が嬉しかったです。

「本当にプロになれるかもしれない・・・」

着々と自分の夢に向って私は歩んでいたのです。

しかし、この思いが脆くも崩れ去る事をこの時は知る由もなかったのです。

入学式を待たずに僕はサッカー部の練習に参加させて頂きました。
初めて練習に参加した日は今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。
それ程僕には印象深い出来事だったのです。
大きな校舎、荘厳な校門。
「プロへの第一歩だ」とワクワクしながらそこを通る自分がいたのです。
いざグランドに入ると、広い敷地で多くの部員たちがサッカーをしている。
「ここが日本一の環境か」と目の当たりにし、次の瞬間には
「早くサッカーがしたい」という気持ちに変わり、急いで着替えたことを思い出すのです。

入学式が終わった段階でサッカー部の同期は約50人。
全学年では約130人の大所帯。(話によると今では350人程らしいです)。
同期の中には、各地の県選抜や、九州選抜がごろごろといたのです。
そこは想像以上にレベルの高い環境でした。
今まで、普通に頑張ってさえいれば褒められた私が、
必死に頑張っても勝てない相手がわんさかいたのです。

1年生だけで選抜メンバーを組み、遠征に行くと連絡があり
なんとか僕もメンバーに入れたのです(50人中15人)。
対戦相手は高校2、3年生なのに、いとも簡単に勝ち続けるのです。
絶対全国大会に行ける」こう確信した夢への一歩だったのです。
サッカーへの情熱がどんどん膨らんでいきました。
*なんとその遠征では今や日本代表で活躍するあの選手も一緒に。
あの長友選手にユニフォームを借りたのはいい思い出です。

夢に向ってサッカーを頑張る中で暗雲が立ち込めてきたのです。
私のサッカー人生は怪我に苛まれ、絶望を味わうことになったのです。。 
話は高校受験の時期に遡ります。

お問い合わせはこちらから
↓↓↓↓↓↓↓↓↓

副業解決!

「サッカーだけでは・・・」

ある日の何気ない会話の中で、父は私に言ったのです。
「サッカーだけでは・・・」。
そう、父の望みは「文武両道」でした。

父親は業界では大手の会社で支店長まで上り詰め、
家族に不自由ない暮らしをさせてくれてたのです。
僕はそんな父親を尊敬していました。そして大好きだったのです。
その父から「サッカーだけでなく勉強も頑張ってほしい」と言われた時に
「そうだ、父を笑顔にしたい」「父が望むような高校生活を送ろう」
そう思った自分がいました。
そこで受験したのが特進コースでした。
受験の成績で「授業料免除」の制度があったので、受験の目標を定めたのです。
「サッカーだけでなく、勉強もしっかりして勉強の特待生になること」

特進コースには受かったのですが、授業料免除にはなれなかったのです。
しかし、授業料免除は期中からでも可能なことを知った私は、
どうしてもその授業料免除の権利を取りたかったのです。
なぜなら、私の下には4歳下の妹と7歳下の弟がいたので
「親や、下の2人に苦労をかけれない」という気持ちを抱いていたからです。
親や家計のことを考えるようになったのはこの時からかもしれません。

高校は私立。高い授業料に加え、サッカー部の遠征費や備品が入る。
加えて、父の業界が不況の煽りを受けたのが高校受験のタイミングでした。
両親としては僕の夢を叶えたいと思いながら、家計を切り詰める苦境の時期だったとは後から知らされたことでした。
僕の受験した特進クラスは「旧7帝大クラスの国立大学を現役合格させる」ことが目標のクラスだったのです。

毎日8限授業(0限補習・6限授業・放課後2限補習)
その後は、休まずサッカー部の練習。
サッカー部の練習は週7日の猛練習でした。
父の望む「文武両道」が思うように実現できず、
私の中で勉強とサッカーのバランスが取れていませんでした。
なぜなら、補習が私を待っていたからです。
いつも補習の関係で、練習には遅れての参加だったので、
終業のチャイムがなると慌てて教室を飛び出す日々でした。
準備の時間が無くコーチから「すぐに練習参加しろ」と指示があるのです。
いきなりハードな練習から入るので、私の脚は悲鳴を上げてしまい、
慢性的な内転筋の肉離れになってしまったのです。

怪我

(中学時代は怪我とは無縁だったのですが)

それをキッカケに、私のサッカーは怪我に苛まれるようになったのです。

「特進コース」とは授業の進度が早いため予習と復習が必須条件でした。
行き帰りのバスの中では眠たいのを我慢して参考書を開いていました。
家に帰っても勉強が必要だったので、睡眠時間が少なくなり、余計に負担がかかっていたのかもしれません。

部活はというと、、、
各チームのエースが集まる環境なので、怪我が多い私は周りにすぐに置いて行かれていたのです。
1軍に呼ばれる同級生が増えていく中、私は隅っこでリハビリメニューをするしかなかったのです。

周りが上手で自分とのレベル差を感じ始め、補習により練習を途中から参加する気まづさ等があり、サッカーに身が入らなくなったのはこの時からかもしれません。
そして、1年生の夏休みが終わる頃、怪我が治る見込みが無かったので
サッカーをやめる決断を下したのです。

このブログを書きながら当時を思い返すと、当時の私は
サッカーを楽しいと思えなくなっていたのです。
いつしか私の顔から笑顔が消えていたのです。
これが「人生で初めての挫折」でした。
そこから数ヶ月後、私はサッカー部を去っていたのです。

「海外で活躍するプロサッカー選手になる」という夢と
「挫折から夢を諦めた自分」とのギャップに苦しんだのです。
夏休み明けのテストも学年100人中90番あたり。成績表を見た瞬間
「こんな筈ではないのに」と目を疑いました。。。

いつも通知表を出すときには笑顔だった両親ですが、今回の悲しそうな、
そして心配する顔。そして静かな声で「どうしたの?」と心配する声が私にとってはとても辛かったのです。
私は両親の笑顔のために頑張っていたのに、全てにおいて私は真逆の方向に進んでいたのでした。

サッカーを諦めたという現実を受け入れるまでは時間が必要でした。
奇しくも教室の隣がサッカー部の練習場で、少し横を見れば練習風景が常に見えてしまう環境だったのです。

グラウンド

一緒に頑張ったメンバーが楽しそうにサッカーをする姿。
気がつけば目で追っている自分がいました。
ふと現実に返り、悲しくなり目を背けたくなる。
そんなことを繰り返していたのです。

部活の時間が始まると私の体は自然とカーテンを閉めに行っていたのです。そう、私は見たくなかった、そして聞きたく無かったのです。
ボールを蹴る音、円陣の掛け声、監督の声、あの懐かしい音や声が否が応でも耳に入ってくると、あのボールを追いかけた日々が蘇ってくるのです。

そこには、明るい未来を描き、「プロサッカー選手になる」という夢を持ってた自分がいたのです。。。
サッカーを諦めた自分はまだまだ、サッカーが大好きで仕方なかったかも知れません。

私のサッカー人生は、そしてプロになること、そしてワールドカップに出ること、全てが終わったのです。

お問い合わせはこちらから
↓↓↓↓↓↓↓↓↓

副業解決!


プロローグ

〜第1章〜 幼少期

〜第3章〜 大学受験

〜第4章〜 エリートサラリーマン

〜第5章〜 転げ落ちる人生

エピローグ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?