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Mの記録

 マウントをとるならこの人だと思わせたのは前に私が見せた反応のせいなので、職場の2つ下の後輩である大田原さんからのマウントは甘んじて受け入れることにしている。

 今日のマウントはさつまいもごはんだった。茨城にある大田原さんの夫の実家から送られてきたさつまいもを使い、昨日の夜にさつまいもごはんを作ったとの報告だった。スマホの写真付きで。
 私はおいしいそうだねとシンプルな感想を伝えた。それから写真を見て黒ごまがかかっていないことに気づいたので、黒ごまをかけたほうがよりおいしいということも添えた。大田原さんはまあまあ満足そうな顔をして、自分のデスクに戻って今日中にとお願いしていた仕事を終わらせてくれた。

 私に対する大田原さんのマウントを助長したのは、彼女の夫のおならについての話だった。
 そのときの大田原さんの話によると、夫が彼女の前で頻繁に放屁するらしいのだが、割と音が大きいとのことで、腹が立つんですよね、かわいい音のときもあるんですけどとのことだった。
 おならの話を聞いた私は、大田原さん自身は夫の前で放屁するのかと訊ねた。大田原さんの答えはYESで、どうやら彼女の夫は妻の放屁に幻滅することなく愛してくれる人らしい。

 大田原さんの答えを聞いて、私は心の底から「いいなあ」と言ってしまったのだった。

 私は過敏性腸症候群で、ほぼ毎日ガスでお腹が張っている。妊娠したことはないが、妊娠初期くらいの出具合ではないかと思うくらいお腹が張って苦しい。
 だから私にとっておならは非常に重要で、放屁のタイミングが来たら逃してはならないのだ。会社では我慢しないといけない局面が多いが、一人暮らしの家ではし放題だ。ガスを溜め込んでいる反動なのか、自分でも驚くほどの爆音の放屁もたびたびだ。
 
 私は長らく恋人がいないのだけれど、もし恋人ができたとして、女性の放屁を快く受け入れてくれる人というのはどれくらいいるのだろうかということをしばしば想像する。好きな人の前で放屁はしたくないという思いはもちろん前提として私の中にあるけれども、おならを我慢することは私にとって死活問題なのだ。腹に溜まったガスによって腹痛をもよおし、座っていることさえも苦痛になる。QOLはダダ下がりだ。

 もちろん病院に通って薬を服用している。だけれどもなかなかよくならない。こんな状態なものだから、大田原さんの放屁の話は私にとってはうらやましい限りだったのだ。そのときの大いに気持ちのこもった「いいなあ」は、大田原さんのマウント欲をだいぶ満たしたようだった。
 それまでは他の人にも割とまんべんなくマウントしている感じだったのだけど、8割は私に向けられるようになった。マウントの中心要素は大田原さんの夫についてなので、独身で年上の私はいい相手なのだと思う。彼女は3年前くらいに会社の同期と結婚した。子供はいなくて、ダブルインカムの余裕をよく口にしている。

 そんな大田原さんとは一緒に仕事をすることも多いので、生産性高く働いてもらうために私が受け入れられる限りは彼女のマウントにそれなりに対応していく所存だ。彼女は定期的に誰かと話をしないと仕事が滞るタイプだから。

 会社で大田原さんからマウントを受けた日は、帰りの電車でスマホのスケジュールにその旨を登録する。スケジュールに入っているのは生理の予実と大田原さんのマウントの記録だけだ。記録といっても内容までは書いていない。でもマウントを受けた事実を記録することで何というか、気を取り直すことができる感じがあるのだ。

 今までの記録をぼんやり眺めていると、1ヶ月のうちでマウントの頻度が高い週があることに気づく。私の勝手な推測だが、この時期は大田原さんの生理前なのかもしれない。
 先月の記録を確認してみると、ちょうど1か月前の週のマウントが多い。ということは、今週はちょっと注意が必要だ。
 私は今日の日付をタップして、「M」と登録した。

 予想が的中したのか、次の日も大田原さんは私のところに人形焼きを持ってやって来た。大田原さんによると、彼女の夫はあんこが嫌いなので家ではあんこのお菓子を食べられないそうだ。でもどうしても食べたくなったので人形焼き買って会社に持ってきたものの、量が多いので一緒に食べてほしいとのことだった。
 大田原さんは手に一枚のティッシュペーパーを持っていて、それを私のデスクに置き、その上に人形焼きを4つ置いた。夫を気遣ってやさしいね、私ならきっと家で食べちゃうよみたいなコメントをして、私は人形焼きを食べた。大田原さんは私の隣の空いた席に座って世間話を繰り広げながら人形焼きをもりもりと食べている。やはり生理前なのだろう。

 人形焼きを食べ終わった後、口をゆすぎたくなってトイレに行ったついでに、スマホのスケジュールに「M」と登録した。

 次の日も大田原さんは律儀に私の席へ来た。定時を1時間半ほど過ぎたころだった。彼女の夫がダイソンのドライヤーを購入したそうだ。でも夫はだいぶ短髪なので全然必要ないんですよねと大田原さんは呆れた感じの笑いを含んで言う。ということはきっと大田原さんのために買ってくれたんだねと私は返す。ダイソンって高いんでしょということにまで言及する余裕はなかった。ガスでお腹が張り裂けそうなのだ。痛くて仕方がない。
 だから「いたた」という声がつい漏れてしまった。

「どうしたんですか?」
 大田原さんが訊く。いつも話を聞いているのだからたまには私の話をしてもいいかと、私は過敏性腸症候群について説明する。
「えー。超つらそうですね」
「薬は飲んでるんだけどね」
「薬が合ってないじゃないですか?」
 予想に反して大田原さんは私を心配してくれる。いいところあるじゃないかとひそかに見直す。
「病院で相談して変えてもらったほうがいいんじゃないですか?」
「そうなんだけどね。最初のころ飲んでた薬はすごく効いたんだけど、副作用で高プロラクチン血症っていうのになってさ。婦人科に通ったんだよね」
 立て続けの気遣い発言につい気をよくして私は会話を続ける。
「なんで婦人科なんですか?」
「急に母乳が出るようになっちゃってさ。焦って婦人科に駆け込んだんだよね。で、高プロラクチン血症って言われたの。薬の副作用だったみたい」

 私は前に友人に話したようにへらへらと説明する。急に自分の胸から心当たりのない白い液体が出るというのはなかなかの衝撃だったのだけれど、今となっては笑い話だ。目の前の大田原さんも笑ってくれているようで、私はほっとする。
 母乳が出たときの状況をもう少し詳しく話しちゃおうかなと思っていると、大田原さんが口を開く。
「母乳なんて私でも出たことないのに」

 よく見ると大田原さんは笑っているようで笑っていなくて、その表情と彼女の言葉にぽかんとする。ぽかんとした私を置いて、大田原さんは席に戻っていく。

 大田原さんはそれから5分ほどして帰っていった。今日は21時くらいまでやらないといろいろ片付かないわと昼頃に言っていたのだけれど。

 残された私は仕事を再開する。だけどパソコンの画面に表示された資料はちっとも頭に入ってこない。仕方なくバッグからスマホを取り出す。スケジュールの今日の日付をタップして、「M」に続けて「母乳NG」と入力する。

 私は気を取り直す。あと1時間くらい働こうと思う。

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