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【短編小説】思いやりとブラ紐

 田園都市線が渋谷に着き、電車から人がぞくぞくと流れ出る。とても幸運なことに、私が立っていた目の前の座席が空く。私はその空間にすばやく尻を滑り込ませる。ひざの上に置いたバッグから文庫本を取り出してふと顔を上げると、さっきまで私が立っていたスペースに女性が立っている。
 前髪を私に向かって右に流し、肩より少し長い黒髪。前髪で隠されていない右の眉毛は少し下がり気味に描かれている。まぶたにはゴールドのアイシャドウが薄くはたかれていて、目尻をピンと跳ね上げた太めのアイラインが引かれている。アイラインによって目力を増した二重の目は右手に持ったスマートフォンを見つめている。頬骨より少し下の位置につけられた濃いめのピンク色のチークのせいで若めな印象を受けなくもないが、この女性はおそらく私と同じくらいの年だろう。きっと30代前半だ。
 白いシフォン素材のブラウスに、薄いグリーンのAラインのスカートを合わせていて、肩からは黒いキャミソールの紐と水色のブラジャーの紐が透けて見える。何となく野暮ったい印象に見えるのは、服の色と不釣り合いな黒のフラットシューズのせいだろう。装飾のないラウンドトゥのシンプルな靴だ。
 女性は左手でつり革につかまり、そのひじに黒のバッグをかけている。それはちょうど私の視界に入る高さだ。バッグはスマートフォンと化粧ポーチと長財布を入れたらそれだけでいっぱいになってしまうだろう。文庫本の入る隙はなさそうだ。
 バッグの取手部分にはキーホルダーがぶら下がっている。キーホルダーは白い円形で、その中央に少しつぶれたピンクのハートが鎮座している。ハートの中には髪の毛を頭頂部でまとめた女性の顔がある。女性の前髪はこれでもかというほど短い。眉毛と鼻はなく、目はやけに離れている。つぶった目からは太いまつ毛が左右三本ずつ生えている。口元には微笑みをたたえて、ほほをピンクに染めている。女性の顔からは卵みたいな白い楕円と左腕が伸びている。楕円の中には申し訳ない程度の髪の毛を生やした赤ん坊の顔がある。この赤ん坊の見た目は、胎児というよりすでに乳児といった風貌である。猿っぽさというか、生々しさがない。そして、つぶれたハートの下には円に沿って「おなかに赤ちゃんがいます」と青い文字で書かれている。
 あぁ妊婦かと、私は前に立つ女性の腹を見るが、ふくらみは分からない。それから、キーホルダーのつぶれたピンクのハートは子宮をイメージしているのかもしれないと思った。
 渋谷から半蔵門線に乗り入れた電車は速度を上げて表参道を目指す。渋谷と表参道の間はカーブが多いらしく、電車はひどく揺れる。妊婦は電車の揺れに上半身を持っていかれながらも、フラットシューズで地面をしっかり捉えて揺れに抗っている。つり革につかまる左腕に一瞬筋が浮いたのが見えた。
 電車の揺れに合わせて、私の顔の前で妊婦の左ひじにかけられたバッグも揺れる。バッグの揺れから少し遅れてキーホルダーも小さく揺れる。バッグの黒を背景色に、白いキーホルダーはコントラストの効果で妙な存在感を放って揺れる。席を譲るのか、譲らないのかと、私に問いかけるように揺れる。
 その問いに対して、私の中ですでに答えは出ている。私は席を譲ることはできない。
 私は昨晩生理になったところで、今日は鎮痛剤でひどい生理痛を抑えての出勤なのだ。加齢のせいか、ストレスのせいか、確実に不順になっていく生理が昨日、私を焦らしに焦らした挙句、43日ぶりにやってきた。少し前まではきっちり28日で来ていたというのに、この変わりようは何なのだろうか。自分で自分の身体に憤りを感じる。
 前に立つ妊婦を見る限り、化粧もちゃんとしているし、スマートフォンをさくさくといじる元気もあるようだし、表情も辛そうではないし、私の方が不調であると自信を持って言える、気がするのだ。鎮痛剤を飲んでいるとはいえ、腹の底では誰かが絶えず貧乏ゆすりをしているような痛みが続いているし、情緒はすこぶる不安定で、本当にもう何もかもやっていられないという絶望的な気持ちを経血と一緒に外に出そうと必死になっている。
 もしも「今日は生理です」というキーホルダーがこの世にあるならば、私は喜んでそれをバッグにつける。眉間にしわを寄せて眉毛を八の字にして、それと同じくらいの角度で目尻をさげ、口を真一文字に結んだ女性が真っ赤なハートの中で腹に手を当ててうずくまっている、そんなデザインを思い浮かべる。ついでに、潔く「席を譲ってください」と書き足してやる。
 妊婦はスマートフォンを持った右手の親指をせわしなく動かしている。目の前に座っている女がマタニティマークに気づいているのに席を譲ってくれないと、夫に報告しているに違いない。
 今日の夜、妊婦と夫の食卓で私のことが話題に上がる。夫はビール、妊婦は無糖の炭酸水で乾杯し、妊婦が作った料理を食べる。キーホルダーに気づきながらも席を譲らなかった私のことを改めて夫に報告する。同い年くらいだったけど、左手薬指に指輪がなかったと妊婦が伝え、最低野郎だなと夫が怒り、さらに、そういう奴は結婚できないと断言する。それから自分たちの子どもは思いやりのある優しい子に育てようとうなずき合う。
 私なら透ける素材の服を着るときにブラジャーの紐の色が見えていても平気でいられる人間には育てないけどねと、意味不明な対抗心から心の中でそんな言葉を吐き捨てる。自分が名も知らぬ夫婦の酒の肴になることを想像したら、腹の中の貧乏ゆすりが強くなった。妊婦のキーホルダーが私を笑うように揺れる。
 電車の揺れは徐々におさまり、もうすぐ表参道に着く旨のアナウンスが流れる。妊婦はまだスマートフォンをいじっている。表参道で降りる気配はない。
 私は取り出した文庫本をバッグに戻し、自分の左手の薬指に目をやる。ここのところ手入れしていなかった指の毛が目立っていることに気づく。今日の夜、必ず剃ろうと決める。それから子宮をいたわるように左手を腹に当てて、眉間にしわを寄せて目を閉じる。

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