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「エモい」なんか撮るな。

道を見よ。黄色く色づいて散々綺麗と崇められたイチョウの葉が、風に吹かれるたび、冷えた空中をゆっくりと舞い人に踏まれていく。どうやら秋ももう終わりらしい。当たり前だ。気づけばもう12月だ。

この上の部分を書いてから、約1週間が経った。書く内容が思いつかなくてボツにしようと思ってたのは内緒だ。たった1週間なのに、外の様子がまた変化した。今では、少しの風で木葉が全部落ちそうなほど葉数も減りだいぶ冬になった。

今年初めての外苑前に行き、インスタでよく見るイチョウ並木を見にいった。若干ピークは過ぎていたが、それなりに綺麗な光景が広がっていた。写真を撮る人で溢れていた。そんな中、女子大生2人組が落ちたばかりのイチョウを拾い、

「なんかエモくね??」

とはしゃいでいた。出た、エモい。私は、他の人よりはほんの少しだけ、「エモい」という単語に向き合ってきたと思っている。自意識過剰だったらすまぬ。エモいは自分の価値観の中にあって、人それぞれだと学んだのだが、それは違くないか?と何様でもない私は思ってしまうことがある。ここからは私の勝手な見解なので読まなくていいぞ。読んでくれたら少しだけ嬉しい。

単に美しい景色のことをエモいと表現してる人がちらほらいる。別にいいんよ。そういう状態私も身に覚えあるから。私は、そういう時に使うエモいの対象は、目の前に広がる美しい景色じゃないと思う。それだけじゃなくて、それを見ている自分も含めてのエモいだと思う。美しい景色に、それを見てる自分達が加わっただけでエモさ増さん?

そんな瞬間を映像や文体に残すことが私は好きだ。個人では強いエモさを撮ることは難しい。むしろ、エモいを撮ろうとするな!私を使ってくれ!私があなた方の強いエモいを具現化しよう。あなた方が、それぞれのエモい状態の中でエモいを強く感じてる瞬間を客観視して撮ってあげよう。Win-winやん。なんてそんな大口叩けるほどの人物にもうすぐなるから待ってくれ。

こうしてエモいを求める麦の映像遊びは続く。


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