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スタッフストーリー#6 / 迷ったときは「やる」方を選ぶ- そんな生き方をしてきたら、感染管理のスペシャリストになっていた看護師の話

コロナ禍の真っただ中の2022年。
感染対策チームの一員として、日夜奮闘を続けているひときわ大きな体の男性スタッフがいた。
感染管理認定看護師の野呂修平さんである。
小学校の教員を目指し歩んでいたはずの道は、青梅慶友病院という場所で思いがけず看護師という職業につながった。
スタッフストーリー第6弾は、看護師野呂修平さんのストーリー。

高校受験に不合格

子供のころは、とにかく気が弱くて泣き虫でした。
一時、九州に住んでいたのですが、その地域は荒っぽい男子が多くて、取っ組み合いのケンカが日常的にあるんです。
自分はあいにく体が大きくて目立つのでちょっかいを出されることも多くて「いやだなあ、絡まれたくないなあ」とずっとそんな風に過ごしていました。

妹・姉と歩く、幼いころの野呂さん

後にバスケットボールと出会い、中学時代には体育優良生徒として都知事に表彰されることになる野呂さんも、幼少期は姉とともにピアノを弾くことが好きな男の子だった。

学生時代は小学校の先生になりたいと思っていました。
もともとあまり好きじゃなかった勉強が、中学2年生のときにパアっと好きになったんです。
良い先生との出会いがきっかけでした。
こんな風に子供たちに、きっかけを与えられる職業って良いなと。

中学2年というタイミングで勉強に目覚めた野呂さんだったが、高校受験では一度不合格を経験している。

第一志望はバスケットの強豪ということで志望した進学校だった。
進学校とはいえ、推薦をもらっているので落ちるはずがないと楽観していたもののまさかの不合格。

意気消沈し、トボトボ歩いていたその帰り道、乗り換えの駅で偶然見覚えのある顔を見つけた。

中学時代、バスケットボールで地域の選抜チームに選んでもらっていたのですが、そのときのチームメイトにばったり遭遇しました。

「いまちょうど高校に落っこちたところ」そんな話を彼にすると、
「じゃあ同じ高校でバスケやらない?」と誘われました。
いっしょに全国大会を目指そうよ、と。

その日、彼に出会ったのは偶然だった。
チャンスというものは予期せず目の前に現れる。
この出会いはチャンスだ。
そう感じた野呂さんは、その場で公衆電話から自宅へ連絡すると母へ告げた。

「明星高校、受けることにしたから」

願書締め切りの2日前というギリギリのタイミングだったが、直前での決定にも関わらず入試は無事突破。
中学2年からだったとはいえ、勉強に取り組んできたことがここで助けになってくれた。

高校時代の野呂さん、ポジションはセンター

明星高校のバスケ部には、中学時代に全国大会へ出場した有名選手もいました。
一方で私は地域の選抜チームに選んでもらってはいたものの一般入試で入った無名の選手。
実績の差を埋めよう、チャンスを逃さないようにしようと必死でした。
そんな風にがんばっていたら少しずつ出場の機会が増えていきました。
3年生ではキャプテンになり、都のベスト8まで進むことができました。

最初に目指した高校ではなかったのですが、チャンスをもらったその場所で精一杯やりきればいいんだと、そんな考えを持てた、原体験になったような気がします。

進路変更、そして他大学への潜入

高校卒業後は小学校教員になる、という志を抱いて明星大学に進学した。
しかし時代は、“超”就職氷河期。
一般企業への就職は厳しく、教員の採用に至っては苛烈といえるほどの狭き門だった。

実際の教員採用数を目の当たりにして、それが現実的な選択肢でないことは感じていました。
時期が来て一般企業を中心に就職活動をはじめましたが、ずっと先生になることを目指してきたので、他の仕事をしている姿がイメージできなくて。

どんな道を進めば良いのかと散々迷っていたときにふと、スポーツトレーナーという職業が頭に浮かんできました。
スポーツトレーナーになるには、理学療法士の資格があると良いらしい、ということまでは分かりましたが、今からそんな資格が取れるものなのか。
働きながら資格も取れるような職場があったらいいのに。
そんなことを友人に話していたら、
「うちの大学ならそういう求人があるかもよ」と教えてくれまして。
彼は体育大学の学生でした。
もう時効だと思って白状しますが、その大学の就職課で学生のフリをして求人票をぱらぱらとめくっていたら、この病院にたどり着いたんです。

老人病院に就職なんてとんでもない

他大学の就職課で知った、働きながら理学療法士を目指せる職場。
それが青梅慶友病院だった。
その大学からは過去何人か、資格取得を目指して就職しているとのことだった。
そんな職場の存在を知った野呂さんは連絡先をメモすると、さっそくコンタクトを試みた。
担当職員から「どこで知ったんですか?」と聞かれたらどうしよう、とヒヤヒヤしながら受話器を握った。

電話に出てくれた職員の方は、そんな心配が吹き飛ぶほど優しく「見学に来てみませんか」と誘ってくれました。

それまで高齢者の病院に何の興味もなく、知識もない野呂さんだったが「とりあえず見学に行ってみよう」そんな風に考えていたところ思わぬところから“猛反対”を受けた。

当時、就労支援施設でボランティア活動をしていたのですが、そこで
「高齢者病院を就職先として検討している」と告げたところ

「絶対にやめたほうがいい」と。

老人病院ってひどい環境だよ。
そんなところに就職するなんてとんでもない。
そんな風に反対されました。

社会人からそのように反対されて、気が変わることはなかったのだろうか。

もちろん不安な気持ちにはなりました。
でも、実際に行ってみないと分からないし、とも思って。
イヤだったら断ればいいんだからと開き直って訪問することにしました。
それで、来てみてびっくりです。
病院というより、ここはホテルか!というくらい隅々まできれいにされているし、スタッフの誰もが素敵な笑顔であいさつしていく。
「老人病院ってこんなところだよ」と、伝え聞いていたネガティブなイメージが一気にひっくり返りました。

見学を終えた野呂さんは、ここで働かない理由がひとつも見つけられなかった。
ボランティア先の大人たちが、親切心からアドバイスしてくれたんだということも理解できる。
老人病院に対する当時の一般的なイメージはそういうものだったのだろうと。
だからあの時『とりあえず行ってみる』ことを選択できた自分は、本当に運が良かった、と野呂さんは言う。

見学後にそのボランティア先へ報告に行きました。

イヤな臭いなんてしなかったこと、
院内がどこも美しくされていたこと、
暗い表情で働いている人なんていなかったこと、
患者さんがきれいな服で穏やかに過ごしていたこと。

そんなことを熱心に話す私に、反対していたはずの人たちも、それならそこでがんばってみなさい、と背中を押してくれました。

反対されると逆にやってみたくなる、
そんな反骨心が強い性格ですか?と訊ねると、全然そういうタイプではないと野呂さんは否定する。

むしろ反対されると、反論できず意欲がしぼんでしまうことの方が多いです。
怒られることも嫌いですし、自分がすることに「あの人はどう思っているんだろう」って他人の感情がすごく気になってしまう性格です。

でも、その時は反対されても行動した。
老人病院で働くなんてとんでもない、とまで言われても行ってみなきゃわからないと。

あのときは、反対意見への反発というより、「やるかやらないか」で迷ったときは、「やる」方を選びたいという考えからの行動だったと思います。
やったときは、それが成功でも失敗でも、次の道が出現するじゃないですか。
でもやらなかったらゼロ。
何も変わらない。
だから、迷ったときはあれこれ悩まずに「やってみる」方を選ぶようにしています。

進路変更は即決だった

2000年4月、野呂さんは青梅慶友病院に入職した。

入職後はしばらくレクリエーションワーカーとして働き、後に生活活性化員(現呼称リビングサポーター)へ職種が変わった。
そうして専門学校の資金を貯めていた3年目のことだった。
ある日、患者様の介助中にミスを起こしてしまう。
気が動転しそうになった野呂さんだったが、何とかその場面でできる唯一の行為「看護師を呼ぶ」という使命を果たした。
すぐに駆け付けてくれた自分より年下の看護師は、顔色ひとつ変えることなく冷静に、そして適切に対処し、患者様を守ってくれた。
「自分は何もできなかった」
その悔しさや、無力さに落ち込む野呂さんにさらなる追い打ちが襲う。

祖母が病気になり、父から電話がかかってきました。
こういう病気らしいんだけどどうすれば良いのか、という相談だったんです。
父からしてみたら「病院で働いているんだから」という何気ない相談だったと思うのですが、こちらは専門職でもなく、答えなんて知らないわけです。
そうすると、父からきついひとことが飛び出しました。

「なんだ、3年も病院にいて答えられないのか」

患者様を前に無力だった自分への悔しさ、頼ってきた父親に何もアドバイスができなかった申し訳なさ、そしてあのときに、やるべきことを瞬時に判断して実行した看護師の頼もしさ。
人生の進路を変更するのに十分すぎる体験だった。

看護師になる。
本当に即決でした。
すぐに看護学校を調べて、社会人入学の手続きを取り、次の春には看護学校に入学していました。

自分は看護師として生きていく。
そう決めた野呂さんは、昼に看護学校へ通い、空いた時間を使って慶友病院で働いた。
私生活では、結婚し子供も生まれた。

いま振り返れば、あのころはとにかく楽しかった。
妻や職場の支えがあったからこそ、ではあるのですが、あれほど楽しかった学校生活は他にありません。
学ぶ内容が興味深かったこともありますが、看護師の試験勉強って誰かと競う必要がないんです。
みんなで合格を目指せる。
そんな連帯感も自分にとっては心地良かった。
家庭、子育て、仕事、学校の全てが同時進行でしたが、家族や職場に支えてもらって勉強していた日々は今も忘れられない良い思い出です。

剣道やピアノよりもバスケットボールを好きになった小学生時代。
自分を誘ってくれた同級生と部活に打ち込んだ高校時代。
そして全員が同じ目標を共有する仲間だった看護学校。
仲間と何かを成し遂げたい、チームに貢献することに喜びを感じるという野呂さんの人柄は、変わることなく今の仕事につながっている。

認定看護師へ

2006年、国家試験に合格した野呂さんは入職6年目の春、青梅慶友病院の看護師となった。
看護師として働き始めた野呂さんの目にこの病院は、どんな風に映ったのだろう。

もともと私は病院をここしか知りませんでした。
でも看護学校では、いろいろな病院へ実習に行く。
そこで初めて知るわけです。
慶友病院がいかに普通じゃなかったのか、ということを。

それぞれの病院にはそれぞれに役割があって、文化も考え方も違う。
それは理解していたとしても、実習先では看護の姿勢に違和感を抱くこともありました。

医療者側の都合ですることと患者様が望まないことがぶつかるとき、どちらの視点に立つのか。
そういった場面での違いは顕著だった、という。

少なくとも私は、青梅慶友病院の考え方に共感しています。
人生最後の日々を豊かに過ごしていただく。
私たちはその邪魔をせず、不便や不快を取り除くサポートをさせていただく。
そのために看護知識と技術を磨いているのだと考えています。

職員のイベントでミュージカルをプロデュースしたことも

2015年、看護師として勤務していた野呂さんに大きなターニングポイントが訪れる。
感染管理認定看護師の資格を目指す、という決心だった。

認定看護師とは、ある特定の分野において熟練した技術と知識を有すると認められた看護師のことで、600時間以上の認定看護師教育課程を修了する必要がある

正直に言って、このときの勉強は大変でした。
分野が専門的過ぎて、知らない言葉がどんどん出てくる。
当時は参考書も少なく、身近に感染管理の認定看護師もいないから質問できる人がいない。
看護学校は「働きながら」通えたけれど、今回は両立できない。
当時、そう考えて7カ月間休職することにしました。
病院で生活費を借りながら何とか乗り切りましたが、このころは勉強も生活もしんどかった。

そうして認定看護師の試験に臨み、見事に合格。
努力を継続する力、それこそ野呂さんの強みだという印象を受けるが本人はそれを否定する。

院内での感染対策講習

自分を努力家とは思っていません。
もっと努力している人はたくさんいますから。
あえて自分の強みは何かと聞かれたら「運が良い」ということでしょうか。

自分は努力家ではない、という野呂さんだが、
「目標を設定しそのためにやるべきことをやる」という生き方は間違いなく野呂さんの人生を形作ってきた重要な要素である。

自衛官だった父から、ひとつだけ強く言われていたことがあります。
それが「決めたこと、そして目の前のことを一生懸命やりなさい」ということでした。
目の前のことを一生懸命やっていると、気がつけば道が開けてくる。
チャンスが自分の方へ転がってくる。
そんな経験をこれまでの人生でたくさんさせてもらいました。
そういう意味でも私は運が良かったと思っています。

認定看護師となって5年が経ったころ、新型コロナウイルスが襲来し、野呂さんの業務は激変した。
この3年間、野呂さんはどんなことを感じてきたのだろう。

個人としてはこれまで学んできたことが活かされることの充実感や、院内ほとんどのスタッフに「感染の人だ」と認識してもらえたこと、みなさんが気軽に相談してくれるようになったことを、ポジティブに考えています。
そしてなによりこの病院の強みを再認識しました。
コロナの対策は、誰も正解を知らない中で検討と決定を繰り返してきました。
その時々で対応が変わることに、慶友病院の職員は嫌がることなく協力してくれる。
変更が度重なっても、その都度いっせいに同じ方向を向けるというカルチャーは、さすが慶友だと再認識できました。

でも、コロナとの付き合いはもうしばらく続いていきますね。

むしろ大変なのはこれからかもしれません。
社会は急激に日常へ戻っていく。
でも私たちがお預かりしている高齢患者様の感染リスクが一気に解消されるわけではなく、院外と院内のバランスをいかにとっていくのか。
そういうマネジメントはこれまで以上に難しくなっていくのだろうと感じています。
でも大丈夫。
目の前のことを精一杯やりきれば、道は開けていきますから。

今はまだ自分の人生を明確にイメージできない、そんな若い人がいたらどんなことを伝えますか。
最後にそうを訊ねた。

キャリアのデザインは人ぞれぞれでいいと思います。
早いタイミングで夢や目標をしっかりとらえて一直線に突き進む、それも素晴らしい生き方ですが、そうでなければならないということもない。
たとえ大きな夢がなくても、目の前には小さな目標があるはず。
その目標のために自分ができることをやってみる。
やるかやらないか迷うならとにかくやってみること。
そうやって生きていると、向こうからチャンスが飛び込んできますから。