オケチャンの可愛さはどこに消えた?
赤ちゃん(以下オケチャン)が生まれてはや4ヶ月。
オケチャンが誕生する前は、正直、人間の赤ちゃんを可愛いと感じたことはなかった。絶対、犬の赤ちゃんのほうが可愛い。ゴールデンレトリバーの赤ちゃんを超える赤ちゃんは存在しない。そう思っていた。
オケチャンが生まれ、育児に四苦八苦するなかで、その考えは180度変わることになる。さすがに目に入れると痛いが、そう表現したくなる気持ちがわかるようになった。あと、年賀状に子どもの写真をのせる人の気持ちも。
毎日一緒にお風呂に入る。三日に一回は体を洗っているときにおしっこをかけられるのだが、そこも可愛い。「ンおっこしたの〜??」と声をかけちゃう。声に反応しニヤリと笑う笑顔を守りたい。
なにが言いたいかというと、おしっこをかけてくる相手を”可愛い”と思えるほど可愛いのだ。ありえなくないだろうか。自分におしっこをかける人間を可愛いと思うなんて。
そんな人を狂わせるオケチャンの可愛さについて疑問に思うことがある。写真にすると、オケチャンの可愛さが映らないのだ。
ドブネズミの美しさが写真に映らないように、オケチャンの可愛さも映らない。これは一体、どういうことなんだろう。
原因として、3つの可能性があった。まずはじめに疑ったのは、写真の写りが(つまり撮る側の僕の腕が)悪いこと。しかし、この疑いは一瞬で消えた。なぜなら僕のiPhoneは最新だし、なによりカメラロールが悲鳴をあげるほどオケチャンの写真を撮っているからだ。こんなに撮ったら奇跡の一枚がきっとあるはず。でも、ない。ということは、撮影のスキル云々の話ではない。
次に疑ったのは、僕だけが「オケチャンの可愛さが写っていない」と思っているだけで、僕以外の家族は「写ってる」と思っているのではないか、という点。僕だけ頭がおかしくなっている可能性も大いにある。
けど、この疑いもすぐに消えることになった。奥様も僕の意見に同意したからだ。驚いたのが、一緒に暮らしているお義母さんも「写真じゃこの可愛さが伝わらないのよね〜」と言っていたこと。なんと。これでオケチャン関係者全員が「オケチャンの可愛さが写っていない」と感じていることになる。僕だけ感覚がおかしいこともないようだ。
最後の可能性は、オケチャンの可愛さは静止画だと伝わらないのでは? という仮説である。これは説得力があるように思われた。オケチャンの動きはどれも愛くるしい。親が育児の大変さを乗り越えられるよう神様がデザインしたかのようだ。
3つの中で最も有力だったこの説も、すぐに消えることになる。なんてことはない。動画にしてみてもオケチャンの可愛さが捉えられなかったからだ。どんなにたくさん動画を撮っても、それを奥さんやお義母さんに見せても結果は同じ。可愛いけど、リアルなオケチャンの可愛さには届かない。なぜだ。
オケチャンの可愛さはどこに消えた?
感情は道に宿る
「会ったことはないけど勝手に信頼している人」というジャンルが僕の中にある。その人が作った作品を見て感動したり、その人が出演している作品を見て「うわ〜すごい素敵〜!めちゃくちゃ信頼できる〜!」と思っている人たち。
その中にオードリー若林さん、そしてテレビプロデューサーの佐久間さんがいて、その2人が力を合わせて作りあげる(もちろん春日さんやスタッフさんも!)『あちこちオードリー』をめまぐるしい育児の中の楽しみにしている。
毎回異なるゲストを呼ぶのだが、星野源さんを呼ぶ回があり、五割増でテレビにかじりついた。なぜなら星野源さんも「会ったことはないけど勝手に信頼している人」だからだ。
リスペクトし合う星野源さんと若林さんを見ながら、やっぱり「会ったことはないけど勝手に信頼している人」同士は共鳴するんよな〜と(偉そうに)思いながら見ていると、話題は星野さんの売れなかった時代の話に。
阿佐ヶ谷の六畳一間の風呂なしアパートに住んでいた星野さん。自転車でバイト先の中野まで行きながら「この世の全てを憎んでいた」と話す姿に信頼ポイントが爆上がり。
そのころの道をGoogleマップで見ることもあるという星野さんに共感した若林さんが「感情って道に乗り移ってる」と被せ、なんて素敵で的確な表現をするのだと唸った。そしてGoogleマップで見るよりも、実際に"道"に足を運んだほうがより感情が蘇るのだろうなと。
そこでハッと気づいた。オケチャンの可愛さも同じ事が言えるのではないか。
可愛さの媒介としてのオケチャン
道に感情が宿る。もう少し踏み込むと、道を感じることによって、当時の葛藤や焦燥感といった感情に強制的にアクセスされる。
そして、感情にアクセスする強さは、道への距離に比例する。道への心の距離が近ければ近いほど、当時の感情が強く思い出されるし、Googleマップで見るように道への距離が遠いと感情の引き出され方は弱くなる。星野さんも、もし番組がロケで若林さんと"道"を歩いたとしたら、強い感情を全てセーブできなかったと思うのだ。
オケチャンは僕にとっての"道"だ。道が感情を媒介するのと同じで、僕はオケチャンに可愛いという感情を引き出されている。いつもカクカクしながら揺れている姿や、抱っこ紐の中で首が折れたと勘違いするほど反って寝てる姿、お風呂場でしっこをかけてニヤリと笑う顔に感じた「可愛い」を引き出してくれる。
そしてその媒介としての力は写真にすると弱くなる。動画にしても同じ。Googleマップと同じように心の距離が離れてしまうからだ。
オケチャンの可愛さは消えたわけではなかった。距離が遠くなっただけであったのだ。
とまあダラダラ書いてしまったが、結論としては「オケチャンの可愛さはリアルじゃないと伝わらない」という平凡な答えになった。でもそれでいい。人生は複雑だけど大切なことはいつも平凡だから。お風呂の波の中で笑いながら漂うオケチャンを今日も洗うのだ。
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