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祖母とクリスマス

金曜日の夜、土曜日の夜とクリスマス支度に勤しんでいたら、丑三つ刻を過ぎていた…。というわけで、日曜日は昼まで寝てしまた…😪
まぁ、来年は丑年ですし(?)と。
お手紙を書いたり何かを包んだりって、深夜の楽しみ小仕事感があって好きである。
(そして僅かながら出し続けている年賀状にまだ一切手をつけてないことに気づいたような気がしたが......きっと気のせいだ!)


そういう巡り合わせの年なのか、今年は例年より多くの喪中ハガキをいただいた。
せめてクリスマス時期にお手紙やプチギフトを贈りたいなぁなんて、今年は会えなかった分の恋しさもつのってそんな気持ちになっています。

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この季節になると、一緒に暮らしていた祖母のことを思い出す。
私が高校生だった1999年、クリスマスの少し前から意識不明になった祖母は病院に移って眠り続けていて、クリスマス過ぎに静かに亡くなった。
祖母はクリスマスが好きだった。
そして贈り物やお手紙を書くのを大事にしている人だった。
(年賀状もしっかり早めに書く人だったから、祖母が亡くなった直後のお正月に彼女からの年賀状を受け取った方もたくさんいたのだそう)

ウチには、「サンタさんがやって来る」という概念が何故かなくて、みんながみんなでプレゼントを持ち寄って贈り合う&子どもはサンタ名義枠(‼︎)で1つ多くプレゼントが貰えるというシステムだったから、サンタを信じてた時期というのが私は皆無なんだけど、両親や祖父母や姉のような叔母たちが用意してくれるお手紙や贈り物がキラキラして見えてとても楽しみだった。

我が家、母方は割と和な感じで日本家屋に住う趣味特技 読経!みたいなおばあちゃんとか親戚がいたんだけど、父方は割と洋風で祖母も叔母もキリスト教系の学校卒だったり(私も祖母と同じ大学だった)、そういえば私が小さい頃に叔母たちは日曜日になるとご近所の教会さんに通っていた(家も昭和の洋間造りだった)。

初孫の私が生まれた当時、祖母はまだ50代で「お婆ちゃん」と呼ばれるのに抵抗があったそう。結果、我らは祖母を「ママ」と呼ぶことに。それにならって祖父も「パパ」となったので、謎に無駄に複雑な家庭感を醸し出していた(たまに他所の人が誰がどの立場か分からず混乱してたw)。

カタカナ呼びの父方と、おじいちゃん・おばあちゃんのいる母方。私の脳内で両家の和洋棲み分けは順調に進んだ。

母の実家は淡路島で遠かったから一緒にクリスマスした記憶が少ない&和洋分類フィルタが私の中にある、そんなとこからクリスマスは父の実家での思い出がたくさん残っている。

そして祖母が亡くなったあとは「もみの木会」なる名前で、祖母のお気に入りだった鎌倉の懐石料理屋さんでクリスマス会のような忘年会のような祖母を偲ぶ会のような昼食会を毎年のように開催している。和洋折衷ここに極まれり…!という感じがしつつ、クリスマスが好きだった祖母が年末に親族が集まる機会を作ってくれたようでもあってみんなの楽しみになっている。

今年はさすがに集まるのはやめておこうと、同じお店の松花堂弁当をそれぞれの家で食べることになった。
お弁当を届けるとき、お手紙とプチギフトを添えたいなぁと思っている。
今年のクリスマスは例年と違うものになりそうだけれど、みなさま良き時間をお過ごしくださいませ🎄

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子供の頃の写真見てたら、ひいおばあちゃんも写ってるクリスマスの集合写真がでてきた。ケーキと一緒にテーブルに乗っていたクリスマスの仕掛け絵本が大人になった今の自分にも刺さりすぎる作りだったので、三つ子の魂よ…という気持ち。。この頃に触れさせてもらったものが今の自分を形作っているんだなぁと思った。

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