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「うちに帰りたい」

実家のベランダには、屋根に上がるためのハシゴがかかっている。
屋上と呼べるような上等なものがあるわけではない。室外機が屋根の上にあり、メンテナンスのために登れるようにしておく必要があったのだ。
そのハシゴは3階のベランダから空に向かって垂直に取り付けられていた。
「危ないから」と、子供が登ることは禁じられていた。

鉄筋コンクリートむき出しの四角い我が家。
ハシゴは屋根にかかった部分がカーブしていて、プールを思い出させる。
まるで屋上にプールがあるように思えた。

誰もいない平日の昼間、よく晴れた日。学校に行きそびれると、ソファに寝そべって、窓越しにそのハシゴを見上げるのが好きだった。
ハシゴの先に屋上プールを想像する。

素足でハシゴを上がり、ザブンっと水の中に飛び込む。

水中から空を見上げるのが好きだ。
潜水して水の底で浮いているのがいい。
水面でキラキラとまたたく光を薄目を開けて眺めながら漂う。

吐いた空気のポコポコという音と、トクトクという心臓の音。
他には、何も聞こえない。
体を覆う、生ぬるい水の感触。
沈みながらも底から押し上げられるような感覚。
ふかふかの布団に沈んで眠る直前のあの幸福な瞬間に似ている。

積極的に死にたいとは思っていない。
だけど、布団に包まれて心地よく眠りに落ちる瞬間、このまま目を覚まさなかったらどんなに良いだろうかと思う。

「どうやったら明日も生きていようという気力を持ち続けられるか?」子供の頃から、いつも必死でその意欲の種を探していた。
この漫画の続きが出るまではふんばろうとか、今度の旅行を楽しみに生きてみようとか。小さなことでいいから、何かすがれるもの、自分のスイッチを切ってはいけない理由になってくれそうなものを探し続けている。

気をぬくと、空気が足りなくなっても水からあがってこなそうな自分を、なんとか繋ぎ止めておきたいのだ。


鳥の声が聞こえる。今日も夜が明けていた。

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