見出し画像

「描く」と「書く」

 子供の時は、絵も作文も、描/書かなければならないが、ここでは、大人になってからのことに限定する。

 大人になってからも、「描/書かなければならない」と「描/書きたい」がある。芸術的な意味は、わたしには扱いかねるので、今回は、「ねばならない」は仕事上、「たい」は趣味として、区別してみたい。しかも仕事上は、他人にわかってもらうため、或いは記録するために、文章や図やグラフやその他諸々を用いて表現するのが業務なのだから、ここでは考察対象から外し、趣味としての「描/書きたい」を、個人的に考えたい。

 わたしは学生時代に教員免許取得の前提条件である必修単位の中の選択講義として「美学」を受講して以来、絵画鑑賞が趣味のひとつとなった。美術館で過ごした時間は、ただの人としては飛び抜けて長いと思う。訪れた美術展や美術館の記念として、気に入った絵画の絵葉書を思い出として2,3枚必ず購入したので、収集品は数千枚である。絵を描くことをいつか習いたいというのは、ずっと夢であって、やっと退職後実現した。
 一方、読書の趣味はもっと長い。特に小中学校の間の読書量は、子供としては多い方だったろうと思う。図書カードを数枚持ち、あちこちから最大限借りて、1日1冊みたいな馬鹿な読み方をしていた時もある。何が自分に残ったのかは大いに疑問だが。一方、自由に書くことは、退職後、数年たって、試しとしてnoteを始めてみた。

 さて、ここで自分が気が付くのは、絵を「見る」と「描く」、文章を「読む」と「書く」ことがセットだということだ。「見る」と「読む」は受動行為、「描く」と「書く」は能動行為とも言える。
 そして思った以上に、能動行為は、受動行為に比べて難易度が高い。これは、本当に、本当に、本当に、差がある。誰もが思いつくであろう、才能の問題は、ここでは個人的な考察なので、無しとする。

 例えば、自分の手をデッサンするという課題があるとしよう。わたしは右利きなので、左手を机の上に置き、ポーズさせ、右手で鉛筆を動かす。生涯付き合っている左手のくせに、プロポーションが難しく、手の表情が難しい。先生は手の骨や関節を意識しなさいと仰る。皴があり、くぼみがあり、肉があり爪もある。先生は男性なので、「血管も大事ですよ。」と仰るが、残念ながら、脂肪に覆われて血管は見えない。先生もわたしの手をご覧になって「こりゃ仕方ない。」と納得される。自分の「手」を「手」として「描く」ことがどれ程難しい事か。
 つまり「見る」ことは実は殆ど意味が無い事を、「描く」ことで実感できる。学生時代の植物形態学では、最初の頃、植物の構造を、形態学特有の描き方でスケッチすることを、徹底的に叩き込まれた。構造を理解するには、自分の手で描くことが、最善最短だからだ。「描く」ことは、「理解する」ことの一つの手段なのだ。その上に、更に才能や技術も伴えば、「描く」ことは、「自分を表現する」こと、つまり芸術の段階に近づくのだろう。

 一方「書く」ことも、自分には大変だ。テーマを見つけ、メモを書いてみて、どうしたらいいか考える。論理性はあるか、読む人が途中で嫌にならないか、どんな形にせよ結論はあるのか。よく「言語化」という言葉を聞くが、感情の言語化、思考の文章化は、「見る」ことを「理解する」方向に近づけることに似ている。
 おまけに「文は人なり」という怖い格言もある。文を書くということは自分の内面を晒すことだ。それを公開するのは、人前で裸体になるような、羞恥を伴う。

 「描く」と「書く」を始めてみて、少しわかったのは、その難易度だけではない。自分にとっては、正直、それらが無くても居ても立っても居られない程ではない。無くては生きていけないような飢えはないが、それでも細々と継続しているのは、矢張りどこか「好き」なのだろう。必須ではないが、面白い。自分には、正に趣味の領域なのだ。
 「受動」ばかりでは退屈だ。「能動」は難しいが、それなりの楽しみ・面白味もある。どこまで続くは疑問だが、ま、やってみましょ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?